小話: 世界は純粋さを壊さないでほしい
とある日のこと。私は村でのボランティア活動中に、突如めまいと吐き気に襲われた。立っていることさえできず、トイレに駆け込んだ。
15分くらいトイレに篭っていたら、体調不良は落ち着いてきた。原因はよくわからなかった。何も変なものは食べていない。疲れのせいかもしれないし、気温の変化のせいかもしれない。
一つ心当たりがあったのは、空腹だった。外からは見えず私にしか感じ取れないが、空腹は確かにお腹に存在していた。朝にチヤと軽食だけ食べて40分も50分も歩くのは、いささか無理があった。
私は他のボランティアの方々には先に行ってもらい、コミュニティの家の一つで一人休ませてもらうことになった。庭のベンチに座り、鞄に忍ばせていたチョコレートビスケットを食べた。家のディディ(お姉さん)がチヤとリンゴまでくれた。あぁ、水分が身体を生き返らせる。空腹も消えてゆく。
その場に2人の少女がいた。まだ10歳くらいのすらっとした子たちだった。おそらくその家の娘さんか、親戚の子たちだろう。
小さな顔のニコニコした笑みは、明らかに私のほうを向いていた。私への好奇心を持っているようだった。いかにも何か話しかけたそうな素振りである。
彼女たちは物珍しさから、外国人全般に興味を持つのだと思われる。それに加えて私のアドバンテージは、ネパール語がある程度話せる外国人だということである。外国人は英語を話す、というイメージを子どもたちは持っているから、私は一段階物珍しさが増す。(ただまあ、言語は言語に過ぎず、それ自体は特技でもなんでもない。楽器も弾けないし手品もできない自分自身を、私は時々残念に思うことがある。)
「どうかした?」私は彼女たちに話しかけてみた。最初私のネパール語に対して、彼女たちは「Yes」などと英語で返答する。それが徐々にネパール語での会話になっていく。
「जापानी भाषा बोलनु न」(日本語を喋ってみてよ)一人の少女が笑みを浮かべ、私に問う。
「私はインネパカレー男です。日本から来ました。私はモモが好きです。よろしくお願いします」
彼女たちは目を丸くし、顔を見合わせる。なんだか前にも、同じようなシチュエーションがあったなぁ、と私は思い出した(Day73)。
一人の少女がノートを持ってきた。「ここに日本語を書いてよ」私の目を覗き込んでお願いしてきた。
私は先ほどの自己紹介の4文を、ノートに書いてあげた。ひらがなもカタカナも漢字も交えて書いてしまったので、ルビを振ってあげた。自分の字、汚いなぁと思った。
少女はノートに笑顔を近づけた。「これ、日本人が書いてくれたんだって、学校でみんなに見せよーっと!」
純粋無垢な声の響きが、私の胸の内まで届いた。少女の言葉と表情と感情は、見事なまでに一致しているようだった。本当に学校でみんなに見せたいと思うからそう言葉にした、という感じだった。相手を意図的に持ち上げる大人の営業マニュアルとは、雲泥の差がある。私は少女の言葉を聞き、単純に嬉しくなった。
もう一人の少女がそのノートを取って、少し離れたところでコソコソし出した。しばらくして戻ってきた彼女は、私に先ほどのノートのページを見せてきた。
「えっ!?これ書いたの!?」
私が書いた日本語の下に、そのまま同じ文が書き加えられていた。なんと彼女は、私が書いた文章をそのまま模倣して、見たことも書いたこともない日本語を自分で書いてみたのである。しかも漢字も含めて。"私"も"好"も、ちゃんと判読できた。なんなら私の字よりも整っており綺麗だった。私は驚嘆した。
「"私はモモが好きです"。うん、日本人が読んで理解できるよ。いやー、すごいね!」
本当にすごいと思った。私は"すごい"という思いが、私の自然な表情と一致していることを願った。赤ペンでノートに花丸をあげたくなった。少女は得意げそうで、照れくさそうだった。
「果物は何が好き?」少女たちが私に質問をする。
「りんご、みかん...かな」
「日本でも食べられるの?」
「食べられるよ。僕の家にはみかんの木がある。取って食べられる」
「マンゴーも私は好きー」
「一つ面白いことを教えてあげる」私にはマンゴーに関して鉄板ネタがある。
「日本の"いいマンゴー"は、このくらいの大きさで、なんと、一つ10,000ルピーする」
少女たちは目と口を大きく開いた。鳩が豆鉄砲を食ったよう、とはまさにこういう表情である。
「ウソー!!」少女たちの笑顔は満開になる。「ネパールだと、1kgで〇〇ルピーだよ。信じられなーい!」
私の体調は元に戻り、そろそろ行かねばと立ち上がった。去り際にもう一つ、祖母から聞いたネタを言い残してみた。
「ちなみに、今日本は、お米が5kgで3000ルピーする」
可愛らしい小鳩たちは、息を呑んだように、もう一度目と口を大きく開いた。私はそれを背に、田舎道を歩き出した。
この日私に痛烈に生じた感情は、頼むからああいう純粋さを、世界は壊さないでほしい、ということだった。私は切実にそう願わずにはいられなかった。
純粋さ。ポカラに修学旅行で来ていた学生たち(Day14)、踊り子の少女を中心とした村学校の子どもたち(Day103)、4月から日本に留学する好青年(Day119)、ネパールで出会った様々な顔が思い浮かぶ。もちろんこれまで出会った日本人の子たちのことも思い出す。
彼ら彼女たちの心は、ネパール語で言うところの、"सोझो"(素直な)、"इमानदार"(誠実な)である。汚れも埃もない。混じり気なくただ透き通っている。
つまり、純粋さとは心の美しさである。宝石のように輝いているのである。
私が思うに、世界はこういった純粋さを無意識に破壊していく。ここで言う世界とは、成長過程で属する集団を指している。家族から始まり、学校、会社、社会、国まで、大小様々である。
具体的にどのような場面で純粋さが破壊されるかは、あえて敷衍しない。一つ言えるのは、高度成長期の発展、産業化に伴い、環境破壊を推し進めていった時代と比喩的に重なる。高いビルを建て、空気を澱まさせることにより、星空を見えなくさせた、そんな感じである。
純粋さを欠いた世界は、無意味な忙しなさや偽善に覆われた、モノクロの世界に過ぎない。そんな余裕のない世界では、美しさがあったとしても、その存在に気づかない(余裕があるからこそ、夕日の美しさ、クラシック音楽の良さ、桜の儚さに気づけるのだと、私は考える)。
抽象性を保持したまま私は論じているが、つまりは、子どもや若者に対する向き合い方の話である。ルソーの『エミール』と関連づけられるかもしれない。実際ルソーは、"万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる"と述べている。
どうか彼らの純粋さがそのままであってほしい。心の美しさを、私たちは守らなければならない。それは私たちの世界の動力源なのである。芸術同様、世界から消失させてはならないのである。
こうして私は毎朝、一青窈『ハナミズキ』を歌う。今まで出会った数々の純粋さを偲びながら、独りベランダで口ずさむ。私はひねくれているが、案外ピュアでもあるのかもしれない(だいたい私も支離滅裂な考えを言い張っているとして、しばしば忌避される)。
"薄紅色の〜可愛い君のね〜、果てない夢が〜ちゃんと〜、終わりますように〜、君と好きな人が〜100年続きますように〜"
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