最終Day: 異国感、求めていたもの、エンドロール
目覚めて一番最初に感じたのは、吐き気だった。うぇー、気持ち悪い。前の座席のポケットに、飲みかけの水が入れられていた。私はそれに飛びつき、蓋をひねってゴクゴクと飲んだ。
身体は確実に水分を欲しているようだった。疲労と軽い脱水症状によるものだろう。私はしばらくの間、飲める限りの水を身体に流し込んだ。吐き気が徐々に小さくなっていく。
飛行機はどこを飛んでいるのだろう?外の明るさから推測すると、午前5時頃だろうか?左右両側で男性が眠っている。前の座席のテーブルは、手前に倒されたままになっている。その上には、マフィンのようなケーキがぽつんと座っている。コンビニで見かけるような、包装されたものである。
ケーキを見つめながら、昨晩からのおぼろげな記憶を遡る。
昨日の13時半に、私はカトマンズからタイ行の旅客機に乗った。ネパール時間の13時半である。機内食は焼きそばみたいなものだった。バッタイだっけ?甘辛くて美味しかった。カレーではない、というところが感動的だった。食後は紅茶を飲んだ気がする。ネパール航空やバングラデシュ航空よりも、タイ航空の接客対応のほうが丁寧に感じた。
タイ時間18時15分に、飛行機はバンコクに着陸した。タイは空港に入るのさえ、私には初めてだった。トランジットで水は没収された(それが当然である)。預け入れ荷物は取り出す必要がなく、私は5時間ほど持て余すことになった。とりあえず空港内を散策してみた。岡崎市のイオンのように広い。日本料理を含む多種多様なレストランが並んでいる。というか、日本人をいくらでも見かけるので、私は眩暈がしそうだった。
お土産屋も豊富だった。何か買って「これネパールのお土産です」という冗談を日本で言ってみたかったが、サンドイッチと水を買ったら、手持ちの現金が尽きてしまった。私は空港内を縦横無尽に歩き回った後、ベンチに座ってサンドイッチを食べた。そこでもスピッツの『楓』を口ずさんだ。トイレで歯を磨き、銃弾を撃ち込まれたのかと誤解を招かないよう、額のティカを洗い落とした。搭乗時刻が近づくと移動した。
驚いたのが、搭乗ターミナルまで電車(地下鉄みたいだった)が走っているということである。ネパールにいたからか、タイが異常なほどの近未来に感じられた。空港格差、という言葉が私の頭に浮かんだ。
そうして中部国際空港行の飛行機に乗り、左から2番目の座席に座り、両側を日本人男性に挟まれながら、目を瞑ってみたら、気づかぬうちに眠りに落ちてしまっていた。飛行機が離陸した瞬間の記憶さえあやふやである。
そして今起きた。テーブルなんて倒したっけ?私は倒していないはずである。スタッフさんか隣の乗客が倒して、マフィンケーキを置いてくれたのだろう。
私はマフィンケーキを手に取り、パッケージの細かい文字列を眺めてみた。それから前のシートのポケットにマフィンケーキを押し込み、テーブルを元に戻した。あまり食欲が湧いていなかった。窓の外に雲の上の青空が映し出された頃には朝食も出されたが、私はサンドウィッチか何かを数口齧っただけだった。
飛行機が中部国際空港に到着した。ほぼ予定通りの朝8時だった。私は飛行機を出て、トイレを済ませ歯を磨いた。預け入れ荷物を受け取り、入国審査を通過した。

昨年10月以来の日本。周りにネパリしかいない空間が当たり前だったので、急に日本人が多数になると違和感があった。自分の国のように感じられない。異国に着いたかのようである。なんだか落ち着かない。
母が11時半に来てくれる。それまで数時間ある。私はひとまずベンチに座ることにした。機内では3、4時間しか眠れていないはずである。身体はこんにゃくのようにくたくたである。でも、思考はそれなりに働いている。
私はベンチから人の流れを眺めた。土曜朝のセントレアは、そんなに混雑していなかった。静かである。ポテチの袋を力いっぱい開封したら、空港内に響き渡りそうである。一つ空いた席の向こうには、中国人か台湾人の家族が座っていた。通路を挟んだ向かいにはお土産屋も設置されていた。
ふと気になってスマホを開いてみた。ネパリ友人たちから何通か通知が来ていた。日本在住の2人のネパリから、「Welcome to Japan(日本にようこそ)」というメッセージが送られていた。私はニヤついてしまった。異国に来た私を、迎えてくれているようである。
日本がふわふわとした実態のないものになってしまった一方で、ネパールは近くに感じられるようになっていた。直行便で8時間という距離が、なんでもないように思えるようになった。目の前にネパールがある。手を伸ばせば届きそうである。
私は実際に前に手を伸ばし、宙を掴もうとしてみた。もう一度独りで、フッ、とニヤついた。
今村人が私の前に現れて、「ケ チャ、バイ?(兄ちゃん、どうよ?)」と微笑んできても、何も不思議なところがない。実際にその場面を想像してみた。私にとっては、限りなく現実的な想像だった。
私はボストンバッグを乗せたカートを引きながら、空港内を見て回ってみた。特に見たいと思うものもなかった。結局さっきとは別のベンチに座ることにした。目の前のレンタルWi-fiのカウンターをぼーっと見つめて、時間を潰した。
スマホの時刻が11時と表示された。私はネパリファミリーのディディ(家族内ではお母さん)に電話をしてみた。
「着いた?」現地はまだ朝8時にもなっていないが、ディディは電話に出てくれた。
「着きましたよ。荷物の重さ、22.7キロで大丈夫でした。後ろにいるの、誰ですか?」息子くんが顔を出した。土曜日だから、学校も休みか。電話はダイ(家族内ではお父さん)に渡された。
「おぅ、着いたか!」ダイは威勢よく話された。「家まで着いたら、僕たちに家を見せてくれ!」
「いいですよ」私はそう言って笑った。家に帰ってからもそのことは覚えていたのだが、気恥ずかしかったので、結局現在までダイに家を見せられていない。
11時半に母と合流した。母の第一声は「日に焼けたね」だった。ネパールの日差しで顔を黒くして、家族でさえ私だと認識できなくなればいいと思っていたので、私は落胆した。
私たちは昼食のフロアへと移動した。カート押し禁止ゾーンだったので、ボストンバッグを持ち上げていかなければならなかった。22.7キロは子どものようなものである。しかもこいつは、おもちゃを買いたいと駄々をこねる子どものように、なかなかついてこようとしない。苦しそうにバッグを引いている私を、周りの人はどんな目で見ているのだろう、ということが一瞬気になった。でも数分で気にするのをやめた。
何を食べたいか、と母から訊かれた。私はフロアマップを眺めた。味噌煮込みうどんがある。まだ少し気持ち悪さが残っているから、濃い味は避けるか。カレーは言うまでもなく、食べたい気分ではない。

きしめん屋を選んだ。カウンターから美味そうなきしめんが出された。麺をすすって咀嚼して飲み込み、私は目を見開いた。
これだ!これこそ私が求めていたものだ!
あっさりしたスープ。柔らかく艶があり、スルッと喉を流れていく麺。香辛料とは無縁な日本食。
こういうのをネパールで無性に食べたくなる時があったのだ。胃腸不良時はダルバートではなくて、きしめんが必要だったのだ。胃が歓声を上げている。きしめん万歳。
私はあっという間に完食した。出汁が身体に染みこんでいくにつれて、吐き気はさよならしていった。
代金をレジで支払い、私は椅子の後ろに置いていたボストンバッグを両手で持ち上げた。先ほど同様うんとこしょ、どっこいしょしてエレベーターを降り、再びカートに乗せた。駅改札口まで着くと、カートを置き場に手放した。切符を買ったり自動改札口を通ったりする度に、22.7キロを上げたり置いたりするのが面倒だった。やれやれ、まさしく、"家に帰るまでが遠足"である。腕がしびれてきた。
電車が来ていた。改札から遠い車両を選ぶ余裕は私にはなかった。乗り込むや否や、母は空いているシートに座った。母は私のほうを振り向き、手招きをするかのような目線をくれた。でも、座ろうとしているおじさんがいたので、「どうぞ」と私は席を勧めた。おじさんは母親の隣に腰を下ろした。
私はドアのすぐそばに立った。疲れていたが、座るよりも立っていたい気分だった。ボストンバッグは床に置いた。外国人観光客も一定数乗っていた。無意識にネパリはいないだろうかと、私の目線が動き回った。ネパリはいなさそうである。そうわかると、私はドアに身体を向け、視線を窓の外に固定した。天気予報は雨だったが、降りそうで降らない空模様だった。
電車が動き出す。線路が足の下を通過していく。ガタン、ガタン、と一定のリズムが鳴る。車両は揺れない。ここは日本だ。ネパールのバスとは違う。砂埃も舞わない。快適さそのものだ。電車が海の上を滑っていく。
私はやはり、ネパール滞在が終わったという実感が、まるで湧いてこなかった。外国に住む、外国語を話せるようになる、というのは、私が子どもの頃に見た夢の一つだった。大人になって現実を知り夢をあきらめる、と人々は言う。でも、夢は案外叶っているものである、とも私は思う。
夢が叶ってしまったら、一体何をすればいいのだろう?
電車は陸地に入っていく。山が、家々が、道路が、町が見える。でも懐かしさは感じない。電車が駅で時々停車する。
私はもう一度、ネパールの友人や村人が、すぐ私の隣で話しかけてくる姿を想像してみた。何度想像してみても、想像だとは思えなかった。本当にいる気がしてならなかった。
スピッツの『空も飛べるはず』を私は口ずさみ始めていた。声には出していない。心の中で口ずさむだけだ。この歌が今回の旅のテーマソングなのだと、私は確信していた。"偶然のネパール"も、"純粋と美のネパール"も、この歌が見事なまでに具象化してくれている。
"君と出~会~った奇跡~が~、こ~の~胸に溢れてる~"
窓の外の景色が左から右へと流れていく。その流れに乗って、ネパールでの日々を思い返す。ネパールで出会った人々の顔が、浮かんでは過ぎ去っていく。
ネパリファミリーのダイ、ディディ、娘さんたち、息子くん(Day7、Day8など多数出演)
舘ひろし風のグラサンのダイ(この頃は私の文章が自由闊達で活き活きとしていた)
ポカラのツアーで一緒だった黒ポロシャツの青年、思想の強い面白いおじさん(この日が私にとって、ネパールで生きていく自信をつけるためのターニングポイントになった)
アニメ好きの男の子、ハスキーボイスの女の子等、ポカラの修学旅行で出会った学生たち
"ごめんな"のご主人
田舎のネパリおばあちゃん
山奥の村人たち。おばちゃんズ。(この山村を訪れ、これを超える衝撃を感じることも、これより面白い記事を書くことも、もうないだろうと私は思った。)
大正時代の文豪みたいな雰囲気を醸し出すおじいちゃん。
ほうれん草を持った女の子
グレーキャップの男性(私が駄洒落を連発しているだけの回)
前髪直立の青年
お世話になったご家庭の、お父さんと元気な息子くん、及び迫真の演技のウェイターさん
イラムの救世主
寺院が運営する施設に身を寄せるおばあさん
映画館のディディ、お世話になったご家庭のネパリお母さん
お世話になったご家庭のネパリお父さん(高熱と吐き気に悶えている私を、医者のところまで連れていってくださった)
窓の外にはビルが立ち並んでいる。気づかぬうちに、電車は名古屋市街に入っていたようである。灰色の雲が空一面を覆っていたが、雨は降らずにギリギリ持ちこたえていた。
私は泣いていない。
タマン・バイ、彼の家族、彼の村の村人たち(初登場はDay26。以後多数出演。)
村学校の校長先生①、踊り子の少女("記事"として読んだときに、私はこの記事が一番好きである。)
好青年な友達("経験"として見たときに、私はこの日が一番楽しかったと感じる。彼は無事、日本に留学することができた。)innnepacurryo.hatenablog.com
「これ、日本人が書いてくれたんだって、学校でみんなに見せよーっと!」の少女、日本語を初めての模倣で書いてしまう少女
ネパールの"不自由"について語る女の子
Unexpectedに道で遭遇した眼鏡の友人
ヤギヤギヤギヤギヤギ。
ネパールの大晦日と新年を共に過ごした、農業とコメディの先生
詩人D(彼とは今でもメールでやりとりをしている)、"シェルパみたい"と私に言う少女、そのお母さんであるディディ
少年案内団、アニメオタクの青年(ブログには数文しか登場していないが、彼とは村の至る所で遭遇している)、校長先生②
フットボトルをする少年たち
耳飾りの少女、あんちゃん、カラフルマントの少女
無邪気な生徒たち、エモい涙の少年、星形の髪留めの女の子、何より優しい村人の皆さん
これらは登場人物の一部にすぎない。ブログ内でもブログ外でも、まだまだ後ろで沢山のネパリたちが控えている。人間だけでなく、動物まで前に出てこようとしている。
一体私はネパールでどれだけの人に出会い、どれだけの自己紹介をしてきたのだろう?あと5分で終点の岐阜に着きそうだが、エンドロールは尽きそうにない。
そういえば、中学生の頃卒業文集に、"映画の最後に名前が流れる"ことを、将来の夢として書いたなぁ。今この瞬間のエンドロールに、私の名前は必要ない。記憶に留めておきたい人々の名前を載せるだけで十分である。自分脚本の物語で、エンドロールを自ら流す。中学生の頃の夢も、叶ったといっても過言ではないのかもしれない。
いや、夢は終わっていない。終わらせてはいけない。どこまでも続いていく。ネパールでの7ヶ月間は、決して休みではなかった。むしろ私の人生を動かした。私にはぼんやりだが、心の指針ができた。やりたいことはまだまだ残っている。やるべきことを探求していかなければならない。
Never Ending Peace And Love。
私はネパールでの出会いを忘れずにいられるだろうか。忘れるまい。絶対に忘れるまい。忘れてはならないのだ。
でも、彼ら彼女らは、私のことを覚えていてくれるだろうか。
景色が素早く流れていくのとは反対に、私は『空も飛べるはず』を何度も何度も嚙みしめながら、心の中でエンドロールをただゆっくりと流し続けていた。
(おわり)
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この場をお借りして、本ブログを読んでくださっていた方々、ネパール生活をご支援いただいた方々に、深く感謝申し上げます。
「せっかくネパールに住んでみるなら、やったことないけどブログを書いてみたら面白いかな」と思い、なんとなく立ち上げてみて、好き放題に主観的な書き方を連ねてみました。客観的な情報は、あえて可能な限り排除するよう努めました。"ネパールそのものについて"というより、"私という眼鏡を通したネパールについて"書いてみたということです。そのせいで、見るに堪えない記事まで量産してしまいました。全体を通して、一般の方々が求められる内容とは、ひどく乖離していたかと思われます。
その中で意外にも読んでくださっている方がいるんだなぁ、とわかり、少し嬉しく思います("見るに堪えない記事"に溢れているので、恥ずかしいという気持ちが大きいですが)。一文一文レベルで記事を覚えてくださっている方がいらっしゃるとまでは、思いもしていませんでした(一層恥ずかしくなりました。まあ、ありがたいことです)。
本ブログに関して、ご感想、ご意見、ご質問等もしございましたら、お気軽にお寄せくださいませ(日本語って、こんなにも語頭に、"ご"や"お"をつける言語だったでしょうか?)。
ありがとうございました。
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Day208: 計量、小バサミ、さよなら
「22.7.....」
体重計からボストンバッグを下ろし、画面が消えた後、もう一度ボストンバッグを乗せてみた。"22.7kg"ともう一度表示された。
ネパリファミリーはこのボストンバッグに、日本の家族に届けたい物々を入れていた。私もお土産を隙間に詰め込んでいた。そして昨日ディディ(この家ではお母さん)に、「荷物の重さを一度計りたいです。計る機械がこの家にあるんですよね?」と、私は訊いてみた。
ディディはソファの下から、白く四角いものを取り出した。これは.....どう見ても体重計。私は眉をひそめた。上の娘さんがその計量器に両足を乗せ、機能することを確認した。
「これって、人の重さを計るものじゃないですか?荷物の重さは正確に計れないような.....」
「荷物の重さでも正確よ」ディディも娘さんもそう言い切った。うーん。
「何キロまで預け入れできるの?」
「23キロまでです。タイ航空はバングラデシュ航空よりも、少ないんです。ちなみに持ち込みは、7キロまでです」
試し計りをしてみたら、ボストンバッグは22キロ代、リュックは6キロ代だった。
"日本の家族に届けたい物々"を減らしてもらえるとありがたい、というのが私の本音だった。だったら、私はもっとお土産を買える。しかし、ネパリファミリー、及びその家族から受け取ってきた親切の量を考えると、断るわけにはいかなかった。「荷物どれだけでも運びますよ」とさえ、私は言い出していた。
「まあ、もし重量オーバーしたら、追加でお金を払いますよ」
「追加でいくらかかるの?」
「一キロにつき確か40ドルだったような.....」
「それはいけないわ」
ディディがそう言うのであれば、と私はボストンバッグとリュック間で、中の荷物を調整した。服は可能な限り処分した。最悪着ている服も全部捨て去り空港に行けばいいと、不合理な考えまで思いつき始めていた。冬用の服や読み終えた本は、ネパリファミリーの家に置いていくことにした。
ボクシングは試合前日に計量をクリアすればいいのだが、飛行機の荷物は念のため直前にも計量しておいたほうがよさそうである。失格だけは避けたい。こうして私は出国当日の朝に、ボストンバッグをもう一度計量器に乗せてみたのである。
リュックのほうは、やはり6キロ代だった。となれば、22.7キロからリュックにいくらか移すことはできそうにない。ギリギリを攻めるしかない。"ギリギリでい~つも生きていた~いから~"(KAT-TUN『Real Face』)。
ついでである。
私はディディが台所でこちらを見ていないのを確認し、こっそり計量器に両足を乗せてみた。表示された数字は、ネパールに来る前とほとんど変わっていなかった。ネパールに来て食事量は増えたが、あちこち歩き回った分、消費エネルギーは摂取エネルギーと均等になっていたのだろう。不健康な瘦せ型の私としては、いささか残念な結果だった。私は体重計兼計量器をソファの下に片づけた。
家にはディディと私しかいなかった。ダイ(この家ではお父さん)と上の娘さんは病院に、下の娘さんと息子くんは学校に行っている。
今日帰る、という実感が湧かない。私は荷物をまとめ終えると、ベッドに寝転んでは起き上がり、寝転んでは起き上がった。ディディが早めに朝のカナを用意してくれたが、食欲も湧かず、半分くらい残してしまった。ディディは旅の安寧を祈り、私の額にティカ(赤い印)をつけてくれた。私はディディに手紙を渡した。ロクタ紙(ネパールの和紙みたいな)で折った鶴も渡した。
「これ、娘さんたちと息子くんに」私は彼らへのお小遣いを僅かだがテーブルに置いた。ディディは「そんなの、いいわよ」と笑ったが、私は強情に、「どうぞ」と手を離さなかった。娘さんたちと息子くんは、ティハールでバイ・ティカの儀式を一緒にしてくれたのだ。私にとっては本当に妹と弟のようなものなのである。「ダンネバード(ありがとう)。あの子たちは貯金すると思うけど」と、ディディは言った。
9時半にPathaoでタクシーを呼び、ディディに手を振り、私は空港に向かった。後部座席で窓の外の景色を眺め、路地裏の動画を撮った。いつものように商店が並び、バイクが走り、地元の人々が歩いていた。日常風景は揺れながら、私の後ろに去っていった。積乱雲のようなもくもくとした雲の裏で、青空が垣間見えていた。
しかし、もし預け入れのタイミングでボストンバッグが23キロを超過していたら、どうすればいいのだろう?中の荷物をリュックに移せばいいか。でも、そもそも2つ合わせて7キロ+23キロ=30キロを超えていたら、持っていくことさえできない。服だったらその場で着るか。あるいはまだ荷物を削ってその場で捨てるか。
カウンターの前で鍵のかけたボストンバッグを開き、大粒の汗を流しながらあたふたしている自分の姿が目に浮かんだ。

空港に到着した。「もうネパールルピーいらないんで」と、ドライバーのおじさんに多めに運賃を支払っておいた。私はリュックを背負ってタクシーを降り、ボストンバッグを取り出した。腰をかがめてボストンバッグをカートまで運んだ。
人の数は以前のネパール渡航時より少ない気がした。以前より観光客が減ったのかもしれないし、シーズン的な要因かもしれない。あるいは、まだ朝の時間帯だからかもしれない。
私はしばらくベンチに座っていたが、タイ行きの便の案内が出ると、カートを押して空港内に続く列に並んだ。警察官っぽい男性が、見送りに来る人はこれ以上中に入ってきてはいけない、と注意していた。私は彼に航空券を見せて、カートを押し進めていった。
タイ航空の預け入れ荷物のカウンダーには、すでに7、8人並んでいた。私の電話が鳴った。
「おう、インネパ!」タマン・バイだった。
「見送りに行けずすまん。日本に着いたら連絡してくれ!」
もちろんそうする、と私は言った。電話を切った頃には、私の番が次の次まで迫っていた。心臓の鼓動が若干早くなる。
前の搭乗者が手続きを終え、横へと歩いていった。私は4、5歩分、前に進んだ。
ドゥク、ドゥク。心臓が跳ねだして気持ち悪い。
カートからボストンバッグを下ろし、コンベアーへ続く計量器に乗せる。
ドゥク、ドゥク、ドゥク。
"ドゥク"と"ドゥク"の間隔が短くなっていく。私は計量器の側面を覗き込む。
ドゥク、ドゥク、ドゥク、ドゥク、ドゥク。
"22.7kg"と赤字で表示された。
どんぴしゃり。
私はふぅーっと息を吐いた。あの体重計は正確だったんだ。ディディと娘さんは正しかったんだ。
なんだ、持ち込み荷物の重量は計らないのか。日本出国の際はリュックも計量器に乗せた記憶があるのだが。まあ、ここはネパールの空港である。心配しすぎたのかもしれない。
安堵が胸の中に広がった。
預け入れ荷物がゲートを通過するのを見届けてから、私はエスカレーターで2階に上がった。もうすでに難関は突破している。後は余裕だ。スイスイ滑っていけばいいだけだ。私は服を着ているし、呼び止められるような要素は微塵もない。
というか、他の人も私もリュックにペットボトルの水を挿しているが、そこは何も言われないんだな。バイクの後部座席はヘルメット着用不必要なら、ペットボトル持ち込みも可なんだな。ネパールは緩い。ルールが緩いから、お腹も緩くなるのかもしれない。
いや、お腹は緩くなっていない。日本にいた頃は10日に一回ペースでお腹を壊し、食欲不調な日々も多かった。機能性胃腸症や過敏性腸症候群だろうか。ネパールは身体的なストレスが日本より強いかもしれないが、心理的なストレスは薄い。帰国したら私の胃腸はどうなるのだろう?ネパールの衛生環境に合わせてきたから.....
「कैंची!सानो कैंची!(ハサミ!小バサミ!)」
その声で我に返った。私の手荷物が保安検査を通過する時、検査員の男性が叫んだようである。私は彼のほうを見てから、コンベアを流れてきた自分のリュックに目を向けた。私は検査員の言葉の意味を数秒考えた。そして頭の中でリュックの中を漁ってみた。
あっ、そういうことか。私はリュックのジップを開いた。実際に手の中でごそごそ中を探った。問題の"ブツ"がなかなか出てこない。いくらか上のほうの荷物を外に出してみた。
「なんだ?ないのか?」2人の検査員がこちらを見ていた。「ありますよ、ちゃんとあります」と、私は焦りを抑えながら苦笑いした。"違反物は本当にありますよ"と言い張っている私は、あまりにも正直で滑稽だな、と思った。
ようやく底に埋まっていたジップロックから、私は手のひらサイズのハサミを取り出した。「すみません」と、それを検査員に手渡した。機内に刃物を持ち込もうとする、という凡ミスである。荷物の重さにばかり目がいき、中身への注意が疎かだった。まったく、最後の詰めが甘い。
"詰め"?つめ。
「これもダメですか?」私は爪切りを検査員に見せた。「それは大丈夫だ」と彼は言った。没収したハサミは処分されるようである。

搭乗口前のロビーまでたどり着いた。搭乗時刻までは2時間あった。空港内をうろついてみたが、目ぼしいものは特になかった。ネパールの空港は殺風景なのである。お土産売り場も乏しい。
ネパリファミリーのディディから、「荷物大丈夫だった?」と、音声メッセージが来ていた。「大丈夫でしたよ。22.7キロでした」と、ありのままを音声メッセージで返した。
私は椅子に腰を下ろし、FacebookとInstagramにストーリーを投稿することにした。ネパールの友人たちには帰国することを知らせておいたほうがいいだろう、というわけである。「さよならネパール、また会う日まで」という投稿をした。これだと、いかにも餌をつけた釣り竿のようで、友人から連絡が来るのを待望しているかのようである。まあ、いいか。連絡が来てくれればありがたいという自分を否定できない。
実際に何人かが連絡してきた。「Have a safe journey」や、「Feri vetaula」(また会いましょう)というメッセージが届き、日本語を勉強中の友人は電話をしてきた。村のディディ("シェルパみたい"の女の子のお母さん)からのメッセージは、「Sayonara」だった。
"さよなら"。
「ネパールの人たちはしばしば、"さよなら"という日本語を知っているよね?でも、日本人は日常生活で、"Sayonara”をそれほど使わない。"Goodbye forever"のような響きがあるからなんだ。実際日本だと、恋人との別れや大切な人との死別の歌で、"さよなら"と歌われたりする。そういう印象が強いんだ。だから、僕らは少なくとも友達同士なら、"バイバイ"って言うよ」
私はネパールで何度もそう説いてきた。ネパリファミリーの家で娘さんに、ポカラのバスで学生たちに、そうやって一介の母語話者の視点を伝えたものだった。「そうなの?"Sayonara、Sayonara"って歌っている歌があるから、勘違いしているんだ」と、彼ら彼女らは言った。
"さよなら"だと永遠の別れのように聞こえてしまう。私は今回出会った人たちに、また会いに来るだろう。だったら、"バイバイネパール、また会いましょう"が適している。"さよなら"ではない。
しかし私には、どうやら"さよなら"のほうがしっくり感じられたようである。なぜなのか、よくわからない。"さよなら誤用論"を熱弁したくせに矛盾してはいないかと、指摘されかねない。もうインネパはネパールを捨てたのかと、友人たちに動揺を与えかねない。でも、やはり"さよなら"がいい。感覚的なものである。物語の終わりでは、"さよなら"が雰囲気に合っているのである。
私はスピッツの『楓』を口ずさんでみた。ロビーはざわざわしていたし、「さよ~な~ら~」と声を出したところで、誰にも気にされないだろう。気にされたとしても、私は気にしない。
あ~~~~~、ぼく~のま~まで~、ど~こま~でと~どくだろう~
時間は私の中で静かに経過していった。やはり私には、終わるという感じがよくわからなかった。もし私が本当の意味で"さよなら"を使う時が来ても、"さよなら"を実感できないのだろうか。
やがてタイ航空の乗客は並ぶように、とアナウンスがされた。私はリュックを背負って立ち上がった。7キロ弱のリュックも、22.7キロのボストンバッグも、思い出の重さに比べれば遥かに軽いのかもしれない。
さよならネパール、また会う日まで。
(次回、最終Day)
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Day207: 最後の晩餐、潔癖症、留学と流出
2日前の夕方ことである。私のメッセンジャーに「Now I am in Kathmandu. Can we meet before going to Japan?(私は今カトマンズにいます。帰国前に会えないでしょうか?)」、というメッセージが来た。
私の日本人知人のネパリ友人からだった。(実際は"知人"という単語ではもったいなく、とある"代表"と言うのがふさわしい)。彼女たち2人は以前日本で学生生活を共に過ごしたらしい。私がネパールに渡航する前に知人(代表)が、「でしたら、ネパールでぜひとも私の友人に会っていただけますか?」と提案されていた。
ネパールに到着後、私はドキドキしながら"友人"にネパール語で電話をしてみたら、「日本語で大丈夫ですよ」と彼女はおっしゃった。電話口で彼女が微笑むのが見えたようだった。彼女は私からすると、"ディディ"(自分より年上の女性)と呼ぶのが適切である。日本語はN1(日本語能力試験1級)レベルで、私は相手が外国人だと意識して日本語を話す必要がなかった。
それで会えたらよかったのだが、なかなか日時が合わない。一番合えそうだった場所とタイミングで、私は見事に体調を崩していた。もう帰国日が迫っているし、会えなくても仕方ないなと思っていた。会おうとする努力だけで、私は満足しかけていた。
しかし、帰国をする週に予期せず、連絡が来たのである。なぜ日本語でもネパール語でもなく英語の文面なのか少し謎だったが、別に怪しむ理由もなかった。私は嬉しかった。「Oh really?(えっ、本当ですか?)」と返信してしまった。
「How about your time on Saturday? I want to invite you to my home(土曜日のご都合はいかがですか?あなたを家に招待したく思います)」
「I will arrive at Japan on Saturday(土曜日には僕は日本に着いてしまっています)」私は額に汗を浮かべて笑うにっこりマークを文末に加えた。
「How about Thursday? If you have time please come to my home for dinner. My son also wants to meet you(木曜日はいかがですか?お時間があれば、夕食のためにお越しください。私の息子もあなたに会いたがっています)」
「I think I can come, but I might come back home early because I have my flight on the next day(行けると思います、ただ翌日にフライトを控えているので、早めに家に帰らせていただくかもしれません)」
こうして木曜日の夕方5時半、私は待ち合わせの公園にいた。「○○さん!」という声がした。ネパールで"名字+さん"で呼ばれたのは初めてだった。ディディが迎えにきてくださっていた。電話での印象通り、非常ににこやかな方である。
数分ほど歩くと、ディディの家に着いた。農村の土や石で建てられた家とは異なり、セメントでかっちり固められた家だった。彼女はカトマンズと、別のエリアにもう一つ家を持っているらしい。私は玄関で靴を脱ぎ、ディディの後をついて2階に上がった。台所に入ると、私は座らせていただいた。街の台所、といった感じである。
「◇◇さん!」ディディを呼ぶ声がした。顔を左に向けると、青年が立っていた。あぁっ!この方か!
「インネパさん、この方が△△さんです。JICAの活動をされています」
JICA隊員の方が住んでいる、と私はディディから事前に聞いていたのだった。私と彼は互いに挨拶し合った。私たちの歳はほぼ同じだとわかった。彼の肌は健康的な茶色だった。海も山もネパールも日本も似合いそうである。
「洗濯を今からしようと思うんですけど、」
「△△さん、先に皆でご飯を食べましょう」と、ディディはJICA青年に席を勧めた。3人で食卓を囲むことになった。
私は彼の活動内容を訊いた。彼は私よりも数ヶ月前からネパールに滞在している、とのことだった。私もネパールで何をしていたか、ざっくり話した。
「で、実は明日の昼がフライトなんです」JICA青年はそれを聞いて、「じゃあ、今日が最後の晩餐ですね」と微笑んだ。その通りだ、と私は思った。
あれ、そういえば、と私は周りをきょろきょろしてみた。
「息子さんはどこにいらっしゃるんですか?」
「息子は学校が終わった後、ジムに行ってしまいました」私に会いたい気持ちよりも、筋肉増強欲が上回るのか、と私は新喜劇並みに椅子からズッコケそうになった。まあ、若さとはそういうなのことだろう。

最後の晩餐は言うまでもなく、ダルバートだった。ネパールでそれ以外の選択肢はありえない。
「日本人ってネパリに比べて食へのこだわりが強いですよね」JICA青年が微笑みを浮かべながら口を開いた。「日本人は昼は何食べよう、肉定食にしようか、魚のフライ定食にしようか、パスタにしようか、うどんにしようか、夜はどうしよう、って毎食悩みますよね。それだけ一日の中で食事について考える時間が多い、ということだと思うんです。それに対して、ネパールでは基本的に朝・晩ダルバート、と固定されていますよね。迷う必要がない。考えるとしても、今日のタルカリは何の野菜を使うか、くらいじゃないですか?」
確かにそうだなぁ、と私は納得した。日本人は全体として、食への関心が高い民族なのかもしれない。
最後の晩餐は、サラダがついており、みそ汁の茶碗にダルが入れられており、日本に住んでいたディディならではのダルバートだった。銀色の平皿には、白米、アチャール、チキンが乗せられている。私は右手で食べ始めた。あっさりした味つけが美味しく、日々の食卓に最適である。
JICA青年が聡明だということはすぐにわかった。彼は多弁ではなさそうだったが、落ち着いた口調で自分の考えをはっきり述べる方だった。ネパリが誰しも汚職まみれの政府に対して諦めかけている、というトピックに関しては、「国民ではなく、政府が本当にお金に困るようになるまで、状況は変わらないのかもしれませんね」と言った。「まさにその通りの意見ね」とディディが言うと、彼は「まあ、これは僕の周りのネパリもみんなそう言っているんですよ」と謙遜された。
何の質問に対する答えだっただろう?何にせよ私は何かを彼に尋ね、彼は「ネパールに来てから、日本人は綺麗好きすぎるのかもしれない、と感じるようになりました」と言った。
彼は詳しくは説明しなかったが、私は頭の中でその意味を解釈しようとした。彼の発言には、ネパリが汚い、という意味は決して含まれていないだろう。日本人が過剰なのかもしれない、というニュアンスである。とりわけ身体に対する綺麗好きすぎだろうか。私には毎日風呂に浸かる日本人がイメージしやすかった。
私はひとしきり思考を巡らせた後、「確かに、日本人は、いわば潔癖症なのかもしれませんね」と述べた。
ネパールだと日本よりは水が貴重である。村で"本日は水を使い切ってしまっているため、シャワーを浴びられません"ということがあった。お湯が出ない家も多い。ソーラーパネルでお湯が出るとしても、曇ればお湯は出ず、風をひく可能性とシャワーを浴びたい欲を、天秤にかけることになる。そういう環境では、潔癖症になりづらい。なりたくても、なれない。
日本は水に恵まれている。水道代さえ払えば、一日何回でもシャワーの蛇口をひねるのを許される。そして、潔癖症になるよう求められる。ネパールにいた頃のようにシャワーを浴びない日があってもいいのでは、と帰国前には思っていたが、結局帰国後、私は外出しなかった日も含めて毎晩シャワーを浴びている。 
デザートとして"ラルモハン"をいただいた。モンゴル皇帝のような名称だが、れっきとしたボール状のケーキのようである。ディディが手作りしたとのことだった。ラルモハン自体は甘く、ヨーグルトの酸味と一緒に食べると、丁度良い。
ごちそうさまでした。
食後、JICA青年はミーティングがあるとおっしゃり、自室に戻っていった。私は応接間のような部屋に移り、ディディとお話をした。ディディは結婚した時の裏話や(まあ、私は"表話"も知らなかったが)、日本に留学した頃の苦労、恩師のサポート等について語ってくれた。日本語と英語とネパール語が混ざった会話になった。
ディディと次に話せるのはいつだろう?日本で会うことはできるのだろうか?何より、私のネパール生活はゴールに近づいている。最後の晩餐も終わったのだ。そう思うと、今この瞬間は大切である。
こういう感覚を無意識に抱いた時、私はとりとめもない話を次から次へと詰め込もうとする。疲れていようが、声を張って頑張ろうとしてしまう。悪い癖である。
私は演説のように話し始めていた。
「僕が7ヶ月ネパールに住んで、いろんな人に出会って思ったことの一つが、ネパリが日本に沢山来るのは、果たして良いことなのか、という疑問です」"良いことなのか?"という表現を、"正義なのか?"に置き換えようかとさえ、私は迷った。
「今日本に住む留学生の中で、ネパリは中国に次いで2位の数を誇るようですね?それだけどの地域にも、ネパリ留学生が増えている。でも彼ら彼女らの多くは、勉強を目的で来日しているのじゃない。働きにきているんですよね?お金を稼ぐためです」
"ネパールに仕事があれば、日本に来る必要なんてないんだよ"という、在日ネパリからの言葉を思い出す。
「日本のアニメや文化に興味があって、勉学意欲があって、みたいな学生ももちろんいます。でも、少数ですよね。モチベーションが欠けている留学生もいますよね。"最近日本への留学生がどうしてこんなに増えたのだろう?"って訊いたら、"アメリカやオーストラリアがビザを取得しにくくなったからだよ。それだけさ"って言われたことがあります。なんだか、それってどうなのかなぁ、って気がするんですよね」
私はここまで話して、はっとした。目の前のディディが元留学生だった。彼女がモチベーションがある学生だったことは間違いないが、非常に不躾なことをつらつらと述べ立ててしまったものだ。しかしディディは、「いい考えね」と、むしろ肯定してくれた。
留学というより出稼ぎで、国内の若者が海外に流出する。「ネパールには仕事がない。政府が何もしない」と、自国を批判する。そう、その通りだ。ネパールには仕事がない。政府が腐敗している。若者たちはネパールに戻る者もいるが、日本に定住しようとする者もいる。日本を足場にして、アメリカやカナダに飛ぼうとする者もいる。若者こそネパールの未来を担う存在なのだが、未来が見えないと感じネパールから去っていくのである。
ネパリの海外流出については、賛成論と反対論がある。ネパリの間でも在住外国人の間でも意見が分かれる。ネパール国内でなんとか新たに商売を始めようと、苦闘するネパリもいる。国内に限界を感じるネパリもいる。とある日本人の方がブログで、「以前はネパリ海外流出反対派だった。でも、ネパリ個人レベルで考えれば、ネパールに見切りをつけて海外に出ていったほうが、彼らの幸福になる」というような意見を書かれていた。
「僕は個人レベルでは日本留学を望むネパリを応援します。友達として手伝えることがあれば手伝うよ、っていう感じです。日本に住んでいるネパリに対しても、困ったことがあれば助けます。それはやぶさかでないです。でも、ネパールという国レベルで見たときに、僕はネパリ留学生が日本にこのまま増えていくことに違和感があるんですよね...ネパールはどうやって今後発展していくのでしょうか...?」私はそうやって話を締めた。
結局、日本の少子化問題と同じような構図なのかもしれない。結婚するかどうか、子どもを産むかどうかは、個人の自由である。でも、労働人口減少などの点で、日本の将来は危機に瀕している。一個人が日本全体のことまで考えなくてはならないのか、倫理的な問いである。
私は恐れているのかもしれない。若いネパリたちが国内に残らなければ、ネパールの美しさまで残らなくなるのではないかと。論理的ではないが、なんとなくそんな気がしてならない。私が愛するネパールは、そのうち消える。
いや、そんな想いは、私のエゴではないだろうか?私の思考が絡まる。何が正しいのかなんてわからない。
そもそも、脱出の流れに乗れないネパリはどうなるのだろう?日本留学行きの相場は、150~160万円だと私は聞いている。平均月収2、3万円の国で、誰もがそんな大金を工面できるわけではない。取り残された田舎の人たちは、ギリギリの生活を続けていくしかない。ボランティアをしていた農村地域が目に浮かぶ。
とりあえず私は、ネパリが国内に留まっていられる世界を描きたくなる(少なくとも私が活動していたNGOは、その考えの実現を目指しているようである)。
あぁ、JICA青年のような明瞭な考えを抱きたいものである。
息子さんがジムから帰ってきたようだった。眼鏡をかけた真面目そうな青年だった。私とディディと息子さんは、一緒に写真を撮った。いい写真だ。
8時を回り私はバイタクを呼んだ。バイクの後部座席に乗り、ディディと別れた。運転手のおじさんは、元々政府の軍隊で働いていたと言った。「じゃあ、結構お金を儲けたんじゃないですか?」と、私は冗談めいて尋ねてみた。おじさんは少し笑って否定した。
家に着くと、モモを食べるかとネパリファミリーのディディに訊かれた。私は満腹だからこのまま寝る、と言った。帰国直前にして、私は体調を崩す寸前まで疲労をため込んでいた。シャワーも浴びないことにした。この時間は水しか出ない。朝もお湯(日本人が考えるお湯)は出ないだろう。明日もシャワーを浴びずに飛行機に乗ればいいか、とさえ考えた。
※"留学と流出"論は、Day207当時の私の意見です。帰国してから留学生と話すうちに、私の考えもいくらかマイルドになりました。というか、余計に何が正しいのか、わからなくなってきています。
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Day204-206: 下痢vol.3、NEPAL、見納め

オレンジの朝焼けが山並みを黒い影に染めていた。目覚ましをセットしなくても、私は4:30に目が覚めていた。荷物もショルダーバッグとリュック一つだけだった。出発前に旅の安寧を祈り、職員の方から額にティカ(赤い印)をつけていただいた。
早朝5:30に数人の外国人ボランティアとともにジープに乗り、私はボランティア活動に明け暮れた農村を発った。
私はこれといって、特別何か感情を持っていたわけではなかった。ネパール生活もあと5日だけだが、寂しいという実感は湧いてこなかった。ただ窓の外をぼーっと眺めながら、考え事に頭を働かせていた。
ジープは舗装されていないガタガタ田舎道を1時間ほどで抜けた。舗装された丘沿いの道を走り、道端の食堂で玉子を巻いたロティを朝食として皆食べた。コーヒーかチヤはどうかと店の人から勧められたが、私は断った。あまり眠れておらず、身体はずーんと重い。カフェインを避け、眠ってしまいたい。
しかし車内で目をつぶっても、眠ることまではできなかった。車の振動が阻害したというよりは、なぜか私の頭が鋭敏になっていたのである。脳内で何やら騒ぎ立てていた。なぜかチキンカナを食べたいと、思い始めていた。
12時30分頃、昼食の食堂に着いた。他のボランティアの子たちはベジカナを注文したが、私は衝動に従順になり、チキンカナを注文した。確か、300ルピー(約320円)だったと思う。写真は撮っていない。
美味しい。肉はライスが進む。私は手でガツガツとライスを口に運んでいった。おかわりで店のお兄ちゃんを呼んだ。彼がライスをよそい始めたらすぐに「プギョ(もう十分です)」と言うべきだったのだが、それが遅れてしまった。私はライスをもらいすぎてしまった。もう一度山盛りライスをガツガツ手で食べていった。もう腹十分目、となり、私はライスを少し残してしまった。もったいない。席を立って手を洗いながら、自分はサイテーだと思った。
そんなサイテーには天罰を。
私はネパールに7ヶ月いながら、学習能力が低かった。なぜこの後の展開を予見できなかったのか。
昼食後に待ち受けていたのは、丘沿いのくねくね道だった。大蛇のように右へ左へとうねっていた。ドライバーのハンドルが、時計回りと反時計回りを繰り返す。当然遠心力で、ジープが右へ左へと揺れる。身体も右へ左へと揺れる。そして、私の胃も右へ左へと揺れる。食べすぎた重さで、胃は通常より大きく揺れる。
こうして私はお腹が痛くなり始めた。これは来る、きっと来る。天罰というよりは、自業自得である。ネパールにおいて乗り物で長距離移動をする際は食べ過ぎない、というのは基本中の基本である。ここにきてその過ちを犯してしまった。
どうしよう?道中でトイレを貸してくれるところなんてあるのだろうか。ドライバーや他のボランティアの子にも迷惑だ。あと2時間もかからないと思うから、踏ん張れるかもしれない。と考えた結果、とりあえずカトマンズ到着まで耐えることにした。
こういう時に限って、行く手を阻む者が次々と現れる。
くねくね道の先でトラックとバイクが接触事故を起こしたらしい。私たちを含む何十台もの車が立ち往生する。15分ほどで再出発。
カトマンズに近づくと、今度は謎の渋滞が発生している。「車が故障した!」と歩いてくる人々が叫んでいる。私たちのドライバーも外に出る。私たちボランティアは無言で沈黙のまま動かず待つ。車内の温度が上がる。警察も故障現場に向けて歩いていくのが見える。30分以上経ち、再出発。
その後ジープは何か用事で寄り道をした。結局私は数時間、腹痛とつばぜり合いを続けた。ここはどこだ、カトマンズか?いや違うのか、ゴロゴロゴロ、おぉぉぉぉ、まだかぁ。
カトマンズのオフィスに到着するや否や、私は荷物を外に置いたまま、脇目も振らずトイレに駆け込んでいった。「インネパ~!あれ?どこいった?」というドライバーの方の声が、トイレの中で聞こえた。私は返事をしたが、彼には届かなかった。
小学館による『大ピンチずかん』の最新刊には、"ネパールのしょくどうでごはんを食べすぎて、先の長いたびのどうちゅう、げりのいたみに必死にもだえなければならなくなる。大ピンチレベルは73"、という内容が掲載されるらしい。全国の児童たちに教えこまなければならない。
腸の違和感は残ったものの、腹痛は1回きりで収まった。余談だが、私は日本に帰国した数日後、謎の腹痛に見舞われた。それは10日間も続いた。「ネパールに長くいたでしょ?だから日本の水や食べ物は、もう合わないんだよ」と、ネパリ友人は真顔で言った。
オフィスで大勢の欧米系外国人ボランティアからレストランでの夕食を誘われたが、私は「ひどく疲れている」と言って、9時に布団に入った。本当にひどく疲れていた。
翌朝、皆寝静まっている早朝に服を着替え、歯を磨き、「朝ご飯は外で食べるから、僕の分は必要ないです」と、ここのホステルのディディに伝えた。私はタメルまで歩いた。"ちくさ"でトーストセットとともに、ネパール産コーヒーを飲んだ。何度飲んでも美味い。

コーヒーを飲み終えて店を出た後も、豆の香りが私の鼻の周りを漂っているかのようだった。私の頭は覚醒した。お土産を買うか。
今回私はお世話になったネパリファミリーから、日本のネパリ家族へのプレゼント等を届ける業務を引き受けていた。であれば、空港の手荷物制限を鑑み、自分のお土産は控えめにしなければならない。重いものは買えない。
ひとまず私はTシャツをもう一枚欲しくなっていた。"ネパリじゃないですね?"の店が、すぐに頭に浮かんだ。
確かこの辺りだったよな、とタメルをウロウロしていたら、お目当ての店を見つけた。今日はバイニではなく、おじさんがいらっしゃった。おじさんは私に「コーヒー飲む?」と言ったが、これ以上頭がギンギラギンになっては危ないので断った。
この店は他にはないレアなTシャツを見かける。一つ買いたいものを見つけた。「黒の40がいい」と告げたら、おじさんは店の奥から探し出してくれた。「○○のサイズ○○をよこしてくれ」と、誰かに電話もしていた。「追加で買わないですか?」と軽く勧められたが、「この一枚で大丈夫です」と袋に入れてもらった。"My friend visited Nepal, and all he got is this bloody T-shirt"のTシャツが再び目に入ったが、やはりそのユーモア感覚はよくわからない、と私は思った。

刺繡入りのこのTシャツを、600ルピー(約630円)で購入した。エベレスト、国旗、2本のゴルカククリ(刀)、ブッダズアイ(仏陀の目)と、ネパールのイラスト満載なのもよいが、何といっても、"Never Ending Peace And Love"が素晴らしい。頭文字をつなげて"NEPAL"。いつまでも終わらない平和と愛をネパールが持っていてほしいし、私自身こういう心持ちでいたいものである。
その後、家族へのお土産に人形を買った。女性支援を目的とした団体によるもので、ハンドメイドで作ったカエルと猫の人形だった。お土産用のお中元みたいな紅茶セットも買いたかったのだが、なんせ鞄に入らないだろう。代わりに家庭用の大きなパックの紅茶を複数買った。
ラプシーキャンディーとチュルピも買った。ラプシーキャンディーは木の実を甘酸っぱく香辛料で味つけしたもので、私は食べたことがなく味は保証できない。チュルピはイラムで試食した、激硬チーズである(保存食としては優秀だが、美味しいと私は思わない。チーズの味をうっすらと、最低1時間半は舐め続けなければならない)。これらにより、家族、及び会社の人たちに、まさに"辛酸を舐めてもらおう"と、私はレジでニヤニヤした。
日本人にはオススメなタメル地区のお土産屋さん「ネパールクマリ」@ カトマンズ - 美味しいもの探しの海外旅行街歩き!chiyoの旅
お土産が入った袋を引っ提げてオフィスに戻り、午後にボランティア終了の式を終えた。また額にティカをつけていただいた。ここで修了証明書もいただいたのだが、後日封筒に入れたまま忘れてきたことに気づいた。
バイタクアプリPathaoでネパリファミリーの家におよそ2ヶ月ぶりに帰った。ネパール生活はここで始まり、ここで終わるようである。下の娘さんがニコニコしながら出てきた。彼女が頭を刈り上げていたことに気づいたが、「どうしたのその髪型!?急に何があったの!?」という言葉ではなく、「どこで刈り上げてきたの?」という言葉が私の口から出た。誰が何をしようと、私はもはや何も驚かない。「そこの散髪屋で」とだけ、娘さんは答えた。
太陽が半周し、翌朝になった。私はどこにも出かけなかった。やはり疲れていた。ベッドで寝ているのが精一杯だった。
とはいえ、やるべきこともあった。手紙好きの私は、ネパリファミリーやお世話になった彼らのお父さんお母さんに向けて、ネパール語で手紙をしたためた。下書きをし、二つ折りのはがきに清書した。
お世話になった複数のダイ(お兄さん)たちに、「今週日本に帰る」と電話をした。何人かのネパリ友人たちは私に連絡をくれた。ポカラの修学旅行で一緒に写真を撮った学生の子は「Have a safe flight」と、ポカラのティックトッカー青年は「両親が近々日本を訪れる」と、これまたポカラのダンス一味のバイニ(自分より年下の女性)は「Free timeに日本語を教えて」と、メッセージを送ってきていた。当然のように「次いつ来るの?」と訊いてくる子はいた。半年前の数時間ほどの出会いでさえ、今まで覚えて気にかけてくれることが、私には嬉しかった。
一体どれだけの人々とネパールで知り合ったのだろう?ベッドの上で天井を見上げながら、ぼんやりとそんなことを考えた。時折激しく雨が降った。
夕方6時頃、屋上でシャワーを浴びた。清潔な服に着替え、濡れた髪のままバスルームを出て、遠くに目をやってみた。
あっ、あれは!
私はドタドタと階段を駆け下りていった。スマホを手に取り、再び屋上に駆け上った。

くっきりとヒマラヤが見えた。5月下旬にカトマンズから見えるヒマラヤは、貴重に感じられた。私がボランティアをしていた農村からもヒマラヤが綺麗に見えたらしく、職員の子が動画を送ってくれていた。
ネパール生活もあと2日で終わり。ヒマラヤも見納めか。
フライトは明後日の13:30だから、丸一日ネパールにいられるのは明日が最後だ。どう過ごそう?
明日の予定はすでに決まっていた。私には訪れなければならないところがあと一つある。
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Day203: 飛ぶ鳥、エモい涙、無条件の愛
ネパールでの分厚い一日は、一万字を超えてしまう。
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「インネパダイ!(インネパ兄さん!)この村を離れて私たちと別れ別れになったら、心は痛む?痛まない?」
「痛むよ、すっごく」
「最後の日は泣く?泣かない?」
「泣くだろうね」
子どもたちとそんなやりとりを何度かしてきた。「あなたがいなくなったら、どうやって笑うの?」という言葉をボランティアの職員の子からもらった時、私は何も言えなかった。「村を去ったら、次はいつ来るの?」は、村人たちから私への常套句だった。
学校を去る日に泣こう。ホステルから出発する際に泣こう。
そのためには、感情を極限まで高めることである。心のコップに事前にギリギリまで水を注いでおくのだ。
私は目を閉じて、この村での思い出を意識の中で辿っていった。あんなことも、こんなこともあった。お別れソングをYoutubeで次々と再生したりもしてみた。入学シーズンが終わって間もないにもかかわらず、ゆずの『友~旅立ちの時~』や、レミオロメンの『3月9日』を聴いて歌った(この頃すでに5月中旬だった)。
こうして、活動の最終日になった。しかし、なんだか泣ける気がしなかった。
というのも、私はあまりに疲れすぎていたのである。ほとんど休みを取らずに働き、毎日3時間も4時間も歩きすぎて、脚がイカみたいにふにゃふにゃになってしまっていたのである。ホステルでもベッドを背負って運ぶわ、インゲンの筋取りはするわ、朝7時から通訳業務でハイキングに付き添うわで、身体をいじめすぎたのである。朝起きた瞬間の疲労感があまりにも巨大で、感情に意識を向ける心の余裕がなくなってしまっていた。
それでも、その疲労感を消してしまう笑顔が学校にはある。
朝10時に学校に着き、授業の合間に教室を回ることにした。子どもたちは私の姿を目にすると、こっちに来て!こっちに来て!と、手招きした。私はそのキャッチに誘われるがままに、3年生の教室の前に来た。
「僕、今日で最後なんだ」そんな私の言葉など聞こえないのか、あるいは聞いていないのか。男の子たちは教室の中からにゅっと手を伸ばし、私の両腕を引っ張った。私が抵抗すればするほど、引っ張り隊に応援が加わった。私は笑いながら腕がちぎれそうだった。痛い。あきらめた。どうしようもない。
男の子たちはお宝を協力して運ぶピクミンの如く、私を取り囲み教室の中へ押し入れた。この状況下においても年長者へのリスペクトはあるらしく、クラスの全員が立ち上がって私に挨拶をした。私が体勢を取り戻すと、一人の男の子が私の目を覗き込んだ。
「とりをつくってよ!」
鳥?
「悪いけど今日はモモ肉も鍋もコンロも持ってきていないんだ。まだ暑い季節だし、鶏鍋を皆でつつくのは冬になってからにしよう」と私は言いかけたが、あぁ、鶴の折り紙のことかと思い出した。
「とぶほうのとりね!このまえ作ってくれたやつ!」
以前この少年の家を訪問したことがあった。彼はパイロットになるのを夢見ていて、紙があれば時間場所を問わず紙飛行機を作るのだと、お母さんは言う。「じゃあ、これはどう?」と、私は彼に鶴の折り紙を作ってあげていたのである。Youtubeで調べた翼が動くタイプの鶴である。
彼が鶴の尾を引っ張って羽をパタパタさせながら家に入っていく様子を、私はよく覚えていた。休日にその辺の畑の隅で彼に会ったこともあり、その際も折り紙をあげていた。
私は鞄に折り紙を2枚だけ忍ばせていた。ホステル内の装飾のために作ってみた際に折り紙は評判が良かったので、子ども相手にはここぞの場面で活躍すると考えていた。
私は折り紙を取り出し、椅子に腰かけ机の上で折っていった。子どもたちは周りで私の手元を一心に見つめていた。アニメにせよ、折り紙にせよ、日本人で良かったなぁと感じることがよくある。鶴を折るという日本人には慣れ親しんだ遊びでさえも、ネパールの子どもたちの目には芸術のように映るらしかった。
完成するや否や、子どもたちがわーわー騒いだ。これは自分のものだと、奪い取ろうとした。
「ちょっと、待って!しー、静かに。いい?見てて、こうやってしっぽを引っ張ると......飛ぶんだよ」
自分の声が通るくらい静かになるのを待ってから、私は鶴の羽を動かした。羽をパタパタさせながら鶴に空中を横断させた。子どもたちの視線も鶴の軌道を追って、空中を横断していった。産まれたばかりでこれだけの人間に取り囲まれている鶴は、恥ずかしくてたまらないだろうな、と私は思った。鶴は少年のもとに飛んでいった。少年は尻尾を引っ張り、顔をほころばせた。
子どもたちの視線が私に戻る。「つぎぼく~!」「わたし~!」「おれ~!」
私はもう一羽、同じ鶴を折って、別の子にあげた。子どもたちがまだまだキャッキャとせがんでくる。
「もう紙がないんだよねぇ」私は申し訳なさそうな顔をしてみせた。私はわかっていたのである。折り紙というのはこれまで何人かの子どもに作ってあげた反応を鑑みると、収拾がつかない事態になる恐れがある。学校という場だと尚更である。そうならないようにという意図も込めて、私は折り紙を"2枚だけ"持ち歩いていたのである。
すると、ビリっという音があちこちから聞こえてきた。子どもたちが、自分たちのノートの一ページを破り始めたのである。小さな手の数々と長方形の紙片の数々が、押し合いへし合いで私の前に差し出された。
やれやれ、これで私の逃げ場はなくなった。脱出を試みたところで、ピクミンたちが団結し私を連れ戻すのは目に見えている。まあ、いいか。最終日だし、悔いが生じないよう遊んであげよう。
私は順番に鶴を折っていった。折っては子どもにあげ、折ってはあげ、を繰り返していった。受け取った子どもたちは声をあげながら教室内を歩き回り、鶴は飛び回っていた。
ちょっとまずいかなぁ。そう思っていたタイミングで、次の授業を担当する女性教師の方が現れてしまった。彼女はこのしまりがない惨状を目にすると、入り口でピタッと立ち止まった。私は「ほら、先生来たよ!みんな静かに!」と、呼びかけてみた。子どもたちはそれでもキャッキャと笑い続けていた。あー、このままだと私は授業崩壊の戦犯として追放される。
女性教師は教壇の位置で力強い声を発し(実際には教壇はなく、教壇が本来あるべき位置に彼女は立った)、宿題と前回の内容について子どもたちに確認した。それだけだった。彼女は授業を行わず、1分で教室を出ていった。去り際に私のほうを見て、軽く微笑まれた。私はペコっと頭を下げた。
こうして私は"飛ぶ鳥"を作る人と化した。私はスピードを上げた。高速で折り紙鶴を作っていく、なんだかストリートフードの露店の人みたいだ。チャトパテの代わりに鶴を作ればいいんだ。これで路上商売ができるかもしれない。お金を取らなくても、子どもたちの笑顔がやりがいになるかもしれない。そんなことを考えながら、私は必死で手を動かし続けた。「わたしのとりを、○○くんがこわしたぁぁぁ~!」「ちがうよ、じぶんでこわしたんだろ!」そういう小喧嘩も勃発した。
結局20羽の"飛ぶ鳥"を私は作り出した。そんな感じで午前中を終えた。私は次第に疲れについて忘れていった。疲労を上回る愉快さを感じた。
午後から学校側が私にささやかな送別式を取り行ってくれることになった。カジャ(軽食)として、先生たちが作った"本物の"チャトパテを私もいただいた。プリント用紙の上に乗せられたチャトパテを、段ボールのスプーンで食べた。食べ終える頃には、私は完全回復していた。
送別式の前に、私は生徒たちにバイバイを告げるため、各教室を回った。外は暗くなってきていた。ガランゴロンという重々しい雷音が響いている。突如、夕立のような大雨が降り出した。教師が来ていない教室では、子どもたちが歓声をあげていた。あぁ、自分も彼らくらいの年齢の時は、台風接近という漢字四文字に不思議な高揚感を得たものだった。国が変わっても似たようなものなのかもしれない。
私は4年生と7年生に代わり番こに呼び出され、雨空の元、教室を行ったり来たりした。7年生のクラスで羽の動く鶴の発注を受けたので、作ってあげて羽を動かしてみせた。「すげぇ」と男の子が言った。別の男の子が、私のショルダーバックの腰ベルトに目を向けた。「これ、インネパダイ(インネパお兄さん)の尻尾?」彼がベルトを引くのに合わせて、私は両腕をパタパタさせた。4年生の教室では本気なのか遊びなのか判断がつかない、2人の男の子によるクラスルームファイトで盛り上がっていた。
私は皆との記念に写真を撮ることにした。4年生5年生の男の子たちと顔を並べて自撮りした。アメコミヒーロー好きの男の子は、スパイダーマンを意識してか、ニット帽とネッグウォーマーで顔を覆っていた。7年生の子たちとも一緒に撮った。耳飾りの少女が普段見せないくらいの屈託のない笑顔を見せていた。今でもこれらの写真を見ると、私は嬉しい気持ちに満たされる。
小雨になって外に出たら、一人の女の子が私に寄ってきた。あんちゃんだ。「はい」彼女は私に何やら手渡した。そのままトコトコと去っていった。
それは彼女による折り紙だったといえるかもしれない。ノートの1ページを割いて、六角形に折ってあった。そこに人の顔が書いてあった。大きな瞳から涙が落ち、海か湖のような口ができている。その口の上に"Japan"と書かれ、飛行機が飛んでいる。ヘリコプターか水戦艦のようにも見えるが、彼女なりの想像で飛行機を描いてみたのだろう。顔の額には"We miss you"とピンク色のペンで書かれている。裏返してみると、"We miss you Innepa Blother♡..."と、やはりピンク色でメッセージが記してあった。
"Brother"の綴りが違う、ということに気づいたが、その間違いさえも美しく見えるほど、私の気持ちは晴れやかになった。いや、"間違い"と言うのは語弊だ。英語の試験では多少減点されるかもしれないが、美術や思いやりの試験では150点だろう。私はあんちゃんからのプレゼントを、大切にショルダーバッグに入れた。
間もなくして、5、6、7年生の生徒たちが一つの教室に集結し、送別が行われた。私は皆の前で椅子に座った。校長先生が私について話してくれている際、私の涙腺は熱くなった。胸も熱くなった。だが、泣くまではいかなかった。こみあげてきたものはあったが、泣こう泣こうと思っていると、泣けないものである。私は皆の前で一言述べた。7年生の女子生徒一人も一言挨拶を述べた。
ふと何人かの生徒たちが後ろを振り返った。視線の先は最後列で、そこにはあんちゃんがいた。
泣いている。彼女は涙を流している。あんちゃんは身体を横向きにし、うつむいて顔を手で覆っていた。
私が一層心揺さぶられたのはこの後である。
今度は生徒たちの視線が、教室右側の最後列にシフトしていった。そこには男の子が座っていた。彼はどちらかというと静かな子だった。私は彼の名前さえ覚えていなかった。直接話したこともほとんどなかった。
その彼も涙を流している。苦笑いしながら、涙を抑えきれずにいるようだった。
「えぇ!お前が泣くんかい!」という関西ツッコミが私の口から出かけたが、私は口をつぐんだ。彼を笑おうとする生徒は、誰一人いなかった。むしろ皆、このしんみりとした雰囲気を噛みしめているような表情をしていた。
「エモーショナルになったのよ」と、女性教師が私に微笑んだ。
私はその後、肩に長い手ぬぐいのような布をかけてもらい、校長先生からティカ(赤い印)を額につけていただき、頬にも赤いペイントをつけていただいた。賞状を受け、写真撮影をした。そして、40人ほどの生徒たちが私の前に列を作り、順番に手で私の顔に赤を塗っていった。どのような意味合いがあるのかは私にもよくわからない。何にせよ、瞬く間に、眼鏡を除く顔のすべての表面が赤になった。子どもが前に立つ度に、私は彼・彼女の名前を呼んだ。あんちゃんもエモくなった少年も、涙の混ざった美しい赤を私の顔につけてくれた。その間もあんちゃんは、口を真一文字に結んでいた。
自分が涙を流せなかったのが、なんだか申し訳なくなった。
いや、私はここに来る前に、すでに泣いていたのだろうか、あんちゃんが好きなドラえもんのように。私はこの日着ていた紺色のウインドブレーカーに目を落としながら、そんなことを思った。
少年少女よ、そして私よ、さよならに強くなれ。
先生方に挨拶をした後、私は学校を去った。16時まで待って子どもたちと一緒に下校してもよかったが、この時の私にはここで別れたほうが正解な気がした。そもそも"別れ"ではないな。これは何が何でも、子どもたちにまた会いに来なければいけない。会いに来たい。
帰り道に何人か知っている村人にあった。彼らは私の真っ赤な顔に気づいた。「今日がお別れの日だったんだね」と、皆私ににこっとしてみせた。「次いつ来るの?」と、当然のように訊かれた。
以前ジープで居合わせたアニメ好きの青年も、授業が終わったのか前から歩いてきた。「オォォォォ、インネパさん、カワイイですね」彼は確かに日本語でそう言い、私に笑みをくれた。「可愛くは.....ないでしょ?」と、私は笑みを返した。
オフィスに戻ると、私は事務作業をした。ホステルの家事を担当しているディディ(お姉さん)が「赤く塗られているのを放置しておくと、皮膚が荒れる」と言われたが、私は顔を洗わなかった。翌日早朝にこの村を発ち、カトマンズへと戻る予定である。村を一周散歩したい。
18時に近づいていた夕暮れ、私は泥と埃にまみれたスニーカーを履いて外に出た。顔はもちろん、真っ赤なままだった。それは仮面のようにも感じられたし、むき出しの素肌のようにも感じられた。この村では紅に染まった顔を見ても、「何か事件でもあったの?」と、尋ねられることはないだろう。それでも人々は、私をじろじろ見つめてくるかもしれない。しかし、そんな羞恥心は、私の身体中を探し回っても、もはや見当たらなかった。私はそれくらい清々しい気分に浸っていた。私はもう、ネパールだった。
とりあえず、チヤやご飯をいただいた、ディディの家に行こう。
あと30mでディディの家に着く、というところで、私は彼女の娘さんを見かけた。私を"シェルパみたい"と表した娘さんである。彼女は家の前で、友達か誰かと座っていた。彼女は私に気づいたのだろうか。なぜか私と反対方向に脱兎の如く走り去ってしまった。「えっ?何で逃げるの?」と、私は歩きながら独り笑って戸惑った。結局ディディの家には鍵がかかっており、娘さんも姿を消してしまった。ディディまでどこに出かけているのだろう?私は再び歩き出した。
村は狭い。村は広いかもしれないけど、やっぱり狭い。10分も経たず半周地点まで到達し、私はホステルへ帰る道へと差しかかった。道中、若いネパリ男性たちが私のほうを見て、ひそひそ声を抑えて話していた。私は胸を張り、前を直視して歩行を続けた。警察官と見られる男性に挨拶をした。生徒のお母さんに、「明日ここを出るの?」と訊かれ、「はい、明日出ます」と答えた。そのまま警察官とそのお母さんと、少し談笑した。やはり誰もが、「次いつ来るの?」と訊いてきた。私はまた歩き出した。
私が特に意味もなく目線を道端に向けた時である。一人の女の子と目が合った。
20歳くらいに見える。彼女はスマホを片手に突っ立ったまま、私を凝視していた。彼女が誰なのか、私は一切知らなかった。
「明日行くんですか?」通りの私に向かって、彼女の声が飛んできた。私は足を止めた。
「はい、明日行きます。カトマンズに帰ります」
そこからどういう会話を交わしたのだろうか。気づいた頃には私は彼女の家の前に置いてあった長椅子に腰かけていた。
彼女がどのような身なりをしていたか、私はよく覚えていない。Tシャツを着ていたはずだ。でもそれが、ピンク色だったか黄色だったか答えられない。一つだけ印象的だったのは、星形の髪留めをつけていたということだった。彼女が横を向いた時、星がきらっと私の視野で輝いた。でもそれに関しても、今となっては本当に星形だったのか自信がない。というか、どのような髪型でどのような顔だったかも、私は忘れてしまっている。現在私が記憶している彼女の名前は正しいのだろうか、それさえ私には確証がない。
「僕が誰だか認識していたの?」
「何度か家の前を通っていたのは見ていたわ」
彼女はスマホで父親とビデオ電話しているらしかった。「お父さん、今日本人の人が来ているわよ」と、彼女は画面越しに私を紹介した。私も画面を覗き込んだ。画面上でお父さんの顔以外は白いシーツで、バーチャル背景と見間違えそうだった。彼女の父親はベッドに横になったまま、電話をしているようだった。
「お父さんは中東のほうで仕事をしているの」
「へぇー。あれ?でも、あっちって今昼間だよね?お父さんの仕事、今日はないの?」
「今日は日曜日よ。だから休みよ」
「あぁ、そうか」ネパールにいると、日曜日はどこでも学校・仕事があるものだ、と思い込んでしまう。
私は彼女の父親に少し挨拶をしてみたが、彼は英語とネパール語をごちゃまぜにして話し出した。いささか荒唐無稽な内容で、何を言っているのかよく理解できなかった。「お父さん、酔ってる?」と彼女に囁くと、「ちょっとね」と彼女は肩をすくめた。
私は帰ってシャワーを浴びたかったので、15分くらいしておしゃべりを切り上げようとした。すると彼女は、「チヤを飲んでいって」と家の中に入っていった。私も玄関の門をくぐり、後についていった。
彼女の家はセメントで作られていた。一階の奥に台所があった。彼女は椅子に腰かけるよう勧め、コンロで湯を沸かし始めた。
「何か紙ない?」私は唐突にそう尋ねてみた。
「紙?」
「君は僕にチヤを作ってくれる。僕は君に紙で鳥を作る」
彼女は私の言葉の意味を掴めていなさそうだったが、別の部屋から厚紙を持ってきてくれた。「もう少し薄いほうがいいかな」と私が言うと、子どもたちと同じように、ノートのページを2枚破って持ってきた。
私は2枚の紙を重ねたまま、鶴を折り始めた。彼女はテーブルに湯気を立てた温かそうなカロチヤ(ブラックティー)を置いた。私はそれを一口飲んだ。"飛ぶ鳥"は何十羽も作っていると慣れてしまうもので、ちゃちゃっと完成した。
「んでね、これはこうやって尻尾を引っ張ると、羽が動くんだ」私は羽をパタパタさせてみせた後、彼女にそれを渡した。彼女は数回尻尾を引っ張った後、鳥を360度ゆっくり回しながら、骨董品の価値を査定するような目で、それをしげしげと眺めた。
「今日学校で20羽も30羽も大量生産していたんだ。子どもウケが良かったから。今日はこの鳥が大活躍だよ」
「これ、こうやって、上から紐か何かで吊るして飾れないかしら?」彼女はくすくす笑いながら、鳥の背中をつまんでいた。同じ"飛ぶ鳥"でも、羽が動くことに惹かれる子もいれば、口先から首、尻尾にかけてのフォルムに惹かれる子もいる。私はチヤのカップに口をつけた。
「あなた何歳なの?」
「28」
「17か18に見えるわ」
「君は?」
「何歳に見える?」
ネパリの年齢は、見かけより若いことが多い(これは日本人が若く見えすぎるためだと思われる)。直観マイナス5くらいを攻めておくと、ドンピシャだったりする。
「16か17?」
彼女は20代前半だと言った。
「あなたと話していると、ネパリの友達と話しているみたいだわ」彼女はまたくすくす笑った。
「いや、僕のネパール語は子どもたちによく揶揄われるよ。"シェルパみたい"って言われたり、"なにいってるか、わかんな~い!"と辛辣な評価をくらったりする」
「でも、ネパール語を話す外国人ボランティアは初めてよ」
「本当?ということは、君は沢山の外国人ボランティアに会ってきているわけだ」
「そうよ」
「外国人の友達も沢山いるんじゃない?」
「うん」
「いいことだ」
「チヤ足しましょうか?」
プギョ(十分だ)、と私は言った。この子はネパールだ、と私は思った。
「これこそネパールだ。僕はこういう時間が好きだ」
台所でチヤを飲み終えると、私は腰を上げた。外からは何人かの話し声が聞こえてきていた。家の前の長椅子に、先ほど挨拶をした警察官やお母さん、近所の人らしきおじさんが座っていた。彼らは「明日行くの?」「次いつ来るの?」と、また訊いてきた。これらの質問は出題率100%なのである。
それでは、ありがとうございました、と私は女の子の家からホステルまで歩いた。さて、シャワーを浴びて夕食を食べて、寝るだけだな。日は沈む直前だった。私の顔は夕日よりも赤く塗られていた。女の子の家を出た後に、もう一段階赤みを増した可能性もなくはない。
結局私は星形の髪留めをつけていてくすくす笑う女の子に、SNSも何も尋ねなかった。なんとなくそうした。なぜだかそうするのが正しい気がしたのである。彼女は記憶の中だけの人となった。その分、妙に思い出となった。
こんなことばかり綴っていると、「なんだインネパ。お前はネパールで、年齢問わず女の子と遊んでいただけじゃないか?」と、私を睨む人が現れそうである。確かに、そうなのかもしれない。だとしたら私はこの批判を、ただの嫉妬だと受け止めるだけである。あるいは、ブログに書いていない女の子とのエピソードを追加で語り下ろしてやるだけである。
いや、というよりも、これが生身のネパールの姿なのだ。日常なのだ。そして、生身のネパールを受け入れるには、訪問者自身が素直にならなければいけないのだ。私は自分の素直さに従っているだけなのだ。素直にならないと、ネパールのネパールらしさは見えてこない。
ネパールらしさ、って何だ?
・・・・・・・・・・
私は村とボランティア活動で学んだことを、"偶然のネパール"、"純粋のネパール"、"愛のネパール"という3テーマで、ホステルの"ダイアリー"(と呼ばれていた)に書き残していた。それは前日にネパール語で4、5時間かけて書いた、15ページに渡る超大作だった。プルーストの『失われた時を求めて』が世界最長の小説としてギネス認定されているのであれば、私のは世界最長の、"日本人によるネパール語手記"として認定されるかもしれない。それだけ言葉が溢れ出てきたのである。
私が"愛のネパール"の部分でしたためたのは、おおよそ以下のような内容だった。
नेपालीहरु मलाई सोध्छन्, "किन नेपालमा ७महिना पनि बस्न मन लाग्यो? किन त्यत्ति नेपाल मन पर्यो?" म "खै, मलाई पनि थाहा छैन" भनेदै हांस्थें।
किन होला?
सयद म सोझो मन मन पराउॅंछु होला। तर त्यो मात्र त होइन होला।
अहिले मलाई थाहा भयो। नेपालीहरु सोझो सुन्दर मनले मलाई माया गरिदिन्छन्। बाटोमा मलाई बोलाइदिन्छन्। चिया खुवाइदिन्छन्। घरमा बस्न दिन्छन्। नाम बोलाइदिनछन्। मिठाई दिन्छन्।हॅंसमुख दिन्छन्। रोइदिन्छन्।
यी unconditional हुंदो रहेछ। सर्त नभाको माया हो। माया गरिनुभनदा अगाडि माया गर्ने हो। माया गर्ने खुशीले माया गर्ने हो।
"म अरुलाई sympathize गर्न सक्दिनॅं, त्यही भएर अरुलाई माया गर्न सक्दिनॅं", म त्यस्तो सोच्थें। तर म गलत भएछु। personality, background, value जस्तो भए पनि सम्बन्ध छैन। मानीसले त आफूबाट माया गर्नु पर्छ। मैले तपाईहरुजस्तो हुन महनत गर्नु पर्छ। म जापानमा फर्केपछि पनि परिवारलाई साथीहरुलाई, छिमेकीहरुलाई, colleagueहरुलाई, जापानमा बस्ने नेपालीहरुलाई, नेपालमा बस्ने नेपालीहरुलाई माया गरिहेर्ने छु।
ネパリは僕に訊きます、「どうしてネパールに7ヶ月も住もうと思えたの?どうしてそんなにネパールを気に入ったの?"って。僕は「さあ?僕にもわかりません」と言って笑ったものでした。
どうしてなのでしょう?
おそらく、僕は純粋な心が好きなのでしょう。でもそれだけではないのでしょう。
今となって僕はわかりました。ネパリの方々は純粋な美しい心で、僕を愛してくださるのです。道で声をかけてくれる。チヤをご馳走してくれる。家に住まわせてくれる。名前を呼んでくれる。お菓子をくれる。笑顔をくれる。泣いてくれる。
これらはunconditional(無条件)のように思われます。条件のない愛なのです。愛される前に愛しているのです。愛する喜びをもって愛しているのです。
"僕は他の人に共感する力がない、だから他の人を愛することはできない"、僕はそんな風に考えたものでした。しかし、僕は間違っていた。性格、バックグラウンド、価値観がどのようなものであっても、関係ない。人間というのは、自分から愛さなければならないのです。僕は皆さんのようになる努力をしなければならないのです。僕は日本に帰ってから、家族を、友人たちを、ご近所さんたちを、同僚たちを、日本に住んでいるネパリたちを、ネパールに住んでいるネパリたちを、愛してみようと思います。
勢いで書いてしまったものだったため、翌日に内容を思い起こすと、ひどく恥ずかしくなった。一部抜粋でさえこれほど"面倒な"長文を、私が去った後に誰か読んだのかどうかは、私には知る由もない。別に読まなくていい、と冗談でホステルのディディたちには言い残したが、本当に読まれないほうがいいような気がしたものだった。いっそこの15ページを破り、鶴を折ってしまってくれとさえ思った。
でも、私の考えはこれを書いた時から現在まで、変わっていない。決して愛について語れる立場でないと承知しているが、少なくとも私にとっては一つの真実に到達した気がした。
ロックは人間の心は生まれた時点で白紙だと主張した。チョムスキーは人間は生まれながらに言語生成装置が脳に埋め込まれていると言い張った。だが、so what? そんなアカデミックな話、一般人の私たちにはどうだっていいことである。もっと身近なものから、人間の本質を語ろう。
つまり、愛だ。愛しようとする心だけが、生来的に人間に備わっているのだ。愛する心を無くすということは、人間性を無くしているのと同じなのだ。愛は常になくてはいけない。心にネパールを作らなければならない。でなければ、私たちは何か大切なものを見失ってしまう。
だから、急に博愛主義に目覚めたのかと揶揄されようが、私は以下のように唱えていきたいと思う。
愛は無条件であり、人間の条件である。
私は人間になれるのだろうか?
こうして私は翌朝、自身の翼を広げ、カトマンズへと飛び立っていった。実際は大人しくジープに乗っただけだったが。
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小話: ネワール族の儀式
ネパールの一民族、ネワール族の子どもは、一定の年齢に達すると果物や太陽と結婚する(?)らしい。非常に興味深い話なのだが、"?"レベルの話である。どこまで真実なのか、詳しいことを私は理解できなかった。ガイドに質問攻めをする欧米人観光客のように(往々にして私はそのような光景を見てきた)、知的好奇心を必死に満たそうとする態度が私には欠けている。
耳にしたことがあるのは、ネワール族はこういった独特の儀式を多く持つということである。「ネワール族の人と結婚すると、大変そう」と、とあるネパリは言っていた。

業務に区切りをつけ、ネパール帽子を被り、夕方に会場(儀式が行われるご家族の庭)に到着した頃には、儀式自体はすでに終わっていた。

2人の少女が今回の主人公。重そうな紅い民族衣装に身を包んでいる。目の辺りと眉が、綺麗にお化粧されていた。招待客である私たちは、彼女たちの額にティカ(赤い印)をつけてあげた。もうすでに多くの来客があったようで、少女2人の額は赤で埋め尽くされていた。
カナが振舞われた。プラオ、水牛肉(肉の種類は選べた)、タルカリ、アチャール。3時間前に昼食を食べ終えたばかりだったが、こういうご馳走はお腹に入ってしまうんだよなぁ。ロキシー(ネワール族などが家で作る酒)も少しいただいた。

18時前の丘道を帰っていく。酒を軽く飲んだせいか、遠くの山並みが幻想的に見えた。犬が2、3匹ついてきていた。噛まれるわけにもいかないので、私ははしゃがずに淡々と歩いた。
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Day198-202: はじめて、ドラえもん、チーズボールと花
ボランティア団体のホステルで朝ご飯を食べ終わった後、ソファーでぼーっとしていた時のことである。私は気づかぬうちに、とあるメロディーを口ずさんでいた。
私が小学生の頃だったと思う。日曜夜9時から放送の『行列のできる法律相談所』にて、カンボジアに学校を建てるというプロジェクトが実施されていた。
なぜ法律系トーク番組が(番組内で法律は二の次だったが)急遽異国の慈善活動に乗り出したのだろう?当時のMC島田紳助が「とりあえずやってみよう」と言っていた気がする。そのプロジェクトがどのように資金を集め、どのように進行していき、どのような学校ができたのか、私は詳細を覚えていない。せいぜい女の子が「学校に行きたいの」と、インタビューを受けているシーンがあったような…..私の記憶はその程度である(何しろ20年くらい前の話である)。
ただ、一つだけ印象に残っていることがある。そのプロジェクトが放送開始された頃、番組内のBGMとして『ハナミズキ』が使われていた。平成に最も歌われた曲として名高い、一青窈さんの代表曲である。確かに、子どもたちの夢を叶えるというテーマにマッチする曲として、『ハナミズキ』に勝るものはない。だが、それは番組側が無断で使用したものだった。そこで一青窈さんご本人が『行列』を訪れ、自ら作詞することになった。
こうして誕生したのが『はじめて』という曲だった(と思う)。カンボジア学校建設プロジェクトのテーマソングとして、『はじめて』は正式に流されるようになった。一青窈さんがマイクを握りスタジオで歌っている姿を、私はテレビ画面からなんとなく眺めていた。
長らく記憶の奥底に埋まっていたそのメロディーが突如よみがえってきたのは、なぜだろうか。
私はサビをなんとなく歌うことができた。”なんとなく”では物足りなくなり、歌詞を調べてみた。サビは以下の通り。
君の笑顔が嬉しくて僕は 何度もまた何度も
はじめてを覚えて 君とはしゃいだ
ありがとう 最後に言えるのは それだけで
私は”はじめてを覚えて”を、”はじめて大声で”だと聞き間違えていたのだと判明した。なるほど、カンボジアに新しくできた学校で、子どもたちが友達と一緒に学び駆け回り、その喜びを爆発させている。そんな様子が目に浮かぶ。いい曲だなぁ、と私は思う。一青窈さんの歌い方にも、切実な感情がこもっている。
というかこの曲は、今の私に重なる。
学校に行き、子どもたちがこれ以上にない輝きの笑顔を見せてくれる。それが訪問者の私までもを嬉しくさせる。こうして私は岩石を背負っているかのような疲労を抱えた日でも、子どもたちの笑顔を見にいってしまう。何度も何度も。
『はじめて』を再発見してからこの記事を書いているまでの1ヶ月半、私はほぼ毎日この曲を聴いている。あるいは歌っている。
・・・・・・・・・・・
「スパイダーマンってどこにいるの?」
「アメリカじゃないかな」
「アイアンマンは?」
「アイアンマンもアメリカだと思う」
「ねぇ、ゴクウとナルトはどっちがつよいの?」
「えー、どっちだろう?」
「ボクはナルトだとおもう!」
男の子たちと微笑ましい会話を交わして、私は4年生の教室を出た。5年生の教室に入ると、またまたエネルギッシュな子たちが、昨日と一昨日と同じように私を迎えてくれた。
どういう流れだったかは覚えていないが、私は「ドラえもんを10秒で書ける」と宣言していた。ホワイトボードに12秒くらいでドラえもん全身の絵を描いてみせた(絵描き歌通り描いただけである)。
ドラえもんはナルトやドラゴンボール同様、ネパールでも知名度が高い。(”どれえもん”と発音する子が多い。)世界に誇れる日本のアニメ文化に、私たち日本人は大いに助けられる。
子どもたちは「わたしのノートにもドラえもんかいて~!」「おれのにも!」と、四方八方からノートを差し出してきた。不祥事を起こした芸能人に記者たちが大量のマイクを仕向けるかのように、彼らは私が描く大したことないドラえもんを好奇心で包囲した。授業の合間とはいえ、自分が彼らの勉強の妨げになっているのではないかと、私は悪い気がしてきた。「はい、ここまで。次は明日ね」とキリをつけようとしたが、彼らはどうしても私を逃がそうとはしなかった。
金曜日は半日だけの授業で、午後から生徒たちの家を訪問することにした。マガル族の子たち7、8人が集団下校をするのに、私も加わった。
その中に11、12歳の女の子がいた。彼女の髪はいつも後ろで一つに縛られていた。彼女は授業の合間に私のところにやってきて、「にほんごで~~はなんていうの?」と熱心に質問をしてくる子だった。「~~だよ」と私が教えてあげると、「あん?」と訊き返してくる。彼女の問い返しは、指数関数の曲線みたいに急激に語尾を上げるので、日本人には若干きつく聞こえる。別にネパリの子どもにはなんてことないトーンなのだろうが、私は慣れないうち”あん?”に対して少しだけ怯えていた。だがそのうちに”あん?”が面白くなってきて、彼女のことを勝手に”あんちゃん”と呼ぶことにした。あんちゃんのノートに、私が教えた日本語の表現がネパール文字の発音でびっしり書かれているのを、私は見たことがある。
その日は、あんちゃんを含めた数人の家庭を訪れる予定だった。私はあんちゃんの横を歩き始めた。学校から数分歩いたところで、彼女は何の前触れもなく、私の手を握り出した。
私はひどく困った。どうしよう?『文春』の記者にそれを目撃されたからではない。ネパールの田舎では、未結婚の男女2人が一緒に歩いているだけでも眉をひそめられると聞いている。男女が手を繋ぐという行為なんて、規則を逸脱しすぎている。そうではないか?これはネパールコンプライアンスの網に絡めとられるのではないか?それに、見知らぬ男が子どもと手を繋いでいたら、誘拐犯(あるいは人身売買者)だと勘違いされ、通報されかねない。
そのような思考を経て、私はあんちゃんの手を握り返すことができなかった。私は指を真っすぐにしたまま、左手の平から甲を、少女の小さな右手が包んでいるのを感じた。”感じた”だけであり、私は前を向いたまま、子どもたちと会話し歩を運び続けた。
案の定、道中で見かける村人は、私のほうを見てくる。目を細めて、この人は誰なんだろう、安全な人だろうか、という視線を向けてくる。村人はあんちゃんたちにマガル語で何やら尋ねた。”この人は誰なの?”という質問に違いない。私は「○○(NGO名)の者です。学校から子どもたちと一緒に来ました」と、自分から身分を明かしていった。それを聞くと、ある村人は多少微笑み、ある村人は無表情のまま、納得したように数回頷いた。
「ドラえもんはどこにいるの?」あんちゃんが私の顔に訊いてくる。
「うーん、日本の東京じゃないかなぁ。自信ないけど」
「こんど来たときは、ドラえもんもいっしょにつれてきてね!」
彼女は決して冗談を言っているようには見えなかった。スパイダーマンもアイアンマンも、孫悟空もナルトもドラえもんも、子どもたちの世界では実在しているのである。大人になれば世界が広がると言うが、それは偽である。子どもの夢いっぱいの世界のほうが、地平線が見えない無限の広さがある。子どもの何気ない要求でさえ、私の心を動かす。
「はは、いいよ。でも、ドラえもんは”未来”に住んでいるんだ。つまり、今は21st Century(21世紀)でしょ?ドラえもんがいるのは、22st Century(22世紀)なんだ」21st Centuryという英単語、あるいはその概念を理解しきっていないのか、子どもたちは不思議そうな表情を見せた。
「まあ、頑張って連れてきてみるよ。ちなみに知ってる?ドラえもんの身体は何で青いのか?」
「なんで?」
「ドラえもんは元々、黄色い身体をしていたんだ。黄色だよ。工場みたいなところで、黄色いドラえもんが沢山作られていた。それらには猫のような耳もついていた。でもね、一つのドラえもんは、ネズミに耳をかじられてしまったんだ。彼は悲しくて、ワンワン泣きに泣いた。涙が枯れ果てるまで泣きつくした。その涙が彼の身体を青くしたのさ」
へぇー、そうなの、これは勉強になった、という反応を、男の子も女の子も示してくれた。私に教えられることはこれくらいしかない。
道中あんちゃんたちが「先に行ってて」と、商店に寄った。後から追いかけてきた彼女は、私にチーズボールをくれた。カールのようなスナック菓子である。「えー、いいの?ありがとう」ネパールのスナック菓子は、どうして破裂寸前まで袋に空気を入れるのか、私は以前から疑問に思っている。
私たちは段々畑の間の細い道に差しかかっていた。シコクビエやトウモロコシの畑かな、と私は左右を見回した。先を見ると、この先軽い上り坂が待ち受けていそうだった。
「少しきゅうけいしよう。ここがすずしいからすわって!」男の子に勧められるまま、私は木陰に座らせてもらった。すでに30分ほど学校から歩いただろうか。皆軽く汗をかいている。ほどよい風が身体に当たる。気持ちいい。
子どもたちはチーズボールの袋を開けて、食べ始めた。彼らはおそらく朝8時頃に朝ご飯を食べて、1時間以上の徒歩登校と13時15分までの4つの授業で、エネルギーを消耗しきっている。それに1時間以上の徒歩下校が加わると、家に着くまでに空腹になるのは当然だった。私は軽い昼食を取ってきていたため、「後で食べるね」と言い、ボトルの水で喉を潤わせた。私のように水のボトルを家から持ってきている子もいれば、そうでない子もいるようだった。
10分ほど休憩した後、私たちは立ち上がり、再び歩き始めた。少しづつ丘の奥に進んでいる感覚があった。商店は何一つ見当たらない。木々の間に隠れるように、石と土で作られた伝統スタイルの家が、ぽつんぽつんと建っているだけである。
到着したあんちゃんの家も、そういう伝統スタイルだった。庭の小屋には家畜として、牛やヤギが飼われていた。庭では彼女のおじいさんが、手作業で背負いかごを作っていた。私はおじいさんに家庭状況の聴き取りをした。その間にあんちゃんはTシャツに着替えて出てきて、たらいに入った食器を片づけたり、ほうきで掃除をしたりしていた。
聴き取りを終え、庭先の椅子に座りながら、おじいさんからいただいたデュー(炭酸ジュース)を飲んでいた時である。私は誰かの視線を感じ取った。庭のほうに目を向けてみると、柱の向こうから一人の少女が私を凝視しているのを発見した。
知らない子だ。目がくりくりしていて、髪は2つに結んでいる。背丈も年齢も、あんちゃんと同じくらいに見える。あんちゃんの友達だろう。クルタのようなネパール民族着の上に、カラフルなマントをまとっている。そのカラフルの色合いは濃かったが、マント自体はテーブルクロスよりも薄そうだった。
「के गर्दैछौ?(何をしているの?)」私が話しかけると、彼女は、"えっ?話しかけられた?"という表情で、目を大きく開いてあんちゃんのほうを見た。話すうちに、カラフルマントの少女は私に近づいてきて、私の前で椅子に座った。彼女の声は少しハスキーボイスだった。私が話す度、彼女はちらちらあんちゃんのほうを見た。
私は学校の子どもたちに対峙する時と同様の話し方で、彼女とおしゃべりをしようとした。ネパール語でいくつか質問を投げてみたが、彼女は明瞭な回答を返してくれない。やはりあんちゃんのほうをちらちら見ている。恥ずかしがり屋なのかな?
彼女は思いがけず、苦笑いしながらあんちゃんに視線を固定し、はっきりとこう言った。
「このヒト、なにいってるか、わかんな~い!」
この発言は少なからず、私に心理的なダメージを与えた。心臓を拳骨で殴られたかのような痛みを感じた。私のネパール語に訛りがあるのはわかっている。山岳地域から来た人みたいと言われたことも、シェルパ族みたいと言われたこともある。しかし、"ネパール語が通じない"と宣告されたのは、これが初めてだった。優しいネパリたちに「ネパール語、上手ですね」と言われるほうが通常だったため、私は少女の言葉にうっすら笑うことしかできなかった。言葉が出てこなかったのである。
少女の口調と表情には、揶揄の感情が含まれているように感じられた。私はほんの少し、腹が立ちさえした。初対面の人間に、「このヒト、なにいってるか、わかんな~い!」とは。
この少女はこの世で私が最も苦手とするタイプかもしれない。天敵である。
「いや、ていうか、僕は外国人なんだ。ネパール語は第二言語なんだ。勉強して身に着けたものなんだ。それに対して、君はどう?ネパール語が第一言語でしょ?母語話者として苦労せずに話せるようになっているんだよ。君と僕とでは条件が違うんだよ。僕も日本語なら、君のネパール語のようにほぼ完璧に話せるんだよ。わかる?だから僕のネパール語に訛りや間違いがあって、君のネパール語がCD音声のように完璧なのは当然のことなんだ。そこをまず理解してよ!」
そんな文言が喉まで出てきたが、私はすぐに押し込めた。私ははっとした。この少女はマガル族だ。彼女の第一言語はマガル語だ。家庭内やコミュニティ内ではマガル語を話し、ネパール語は第二言語として話している。私とあまり変わらない条件だ。
完全敗北。私の矜持は小学生の少女によって、いともたやすく打ち砕かれた。私は膝から崩れ落ちそうだった。
むきになるのも大人げない。私はデューを飲み終えるまで、少女と会話を続けることを試みた。彼女はあんちゃんとは別の学校に通っているとのことだった。「そのカラフルマントは何なの?」と訊いてみたが、結局よくわからなかった。やはり会話はどことなく嚙み合わないままだった。
「どうして、アナタこう、こうやるの?」カラフルマントの少女は、私が腕を上げてTシャツの袖で顔の汗を拭く動作を真似した。「それはちゃんとした理由があるよ。新型コロナウイルスが蔓延した頃、できるだけ手で顔を触らないように、って言われたでしょ?手に付着したウイルスが鼻や口から侵入して、接触感染を起こすかもしれないからって。その頃から手の代わりに、袖でこうする癖がついてしまったんだ。シャツの裾をめくって汗を拭うわけにもいかないじゃん?どう?合理的でしょ?」もちろん私はそんなこと言い出せなかった。
少女2人は、その後他のクラスメートの家まで案内してくれることになった。カラフルマントの少女のほうは、カラフルマントをまとったまま細い土段を上っていった。こうして3件家庭訪問をすると、時刻は16時30分になっていた。私は帰路に着くことにした。
「とちゅうまで送ってあげる」と、あんちゃんは言った。カラフルマントの少女も一緒についてきた。5分ほどで、ここまで来れば後は真っすぐ行くだけ、という場所に抜けた。私は手を振って、2人にバイバイしようとした。
「おはな、すき?」
お花?カラフルマントの少女に尋ねられ、私は好きとも嫌いとも答えなかった。彼女は道端に生えていた花を一つ摘んだ。7、8枚の大きな花びらと、長いおしべとめしべのついた、赤い花だった。鮮やかすぎるほどに真っ赤だった。そして、思いがけないことに、彼女は私に近寄ってきて、にこっと笑みを浮かべながらそれを差し出してきた。
「はい、おはなあげる」

こうして私の手元に残ったのは、一袋のチーズボールと、一輪の花だった。
チーズボールはいいとして、花のほうは私を戸惑わせた。どういうこと?(笑) もう訳がわからない。私を散々冷やかしたくせに、最後に花をプレゼントするなんて.....少女は何を目論んだのだろう?あの子は将来、『シャーロック・ホームズ』のアイリーン・アドラーみたいな女性になるのかもしれない。世の探偵たちを心ゆくまで翻弄していきそうである。
散々揶揄ってしまってごめんなさい、あなたをひょっとして不快にさせたのじゃないかと思って、そのお詫び、そんな思いが込められた花なのだろうか?いや、そもそも意図なんか何もないのかもしれない。花を見つけて、なんとなく私にあげてみたくなっただけなのかもしれない。だとしたら、純粋な優しさであり、純粋な純粋心である。
まあ、何でもいい。終わりよければすべて良しである。ポジティブな感情はネガティブな感情をあまねく消し去ってくれる。私は大変気分爽快だった。帰り道の足取りが軽かった。段々畑沿いの道をほぼスキップで下っていった。私も単純な人間である。
子どもたちの優しさは、私たち豊かな国の人間に多くのことを考えさせる。子どもたちは経済的に困難だからといって、私に何かを請うようなことはしない。むしろ私に恵んでくれるのである。明日の自分の軽食代になるであろう貴重な20円か30円で、私にチーズボールをあげてしまうのである。心情は掴めずとも、私に真っ赤な花をプレゼントしてしまうのである。なんと心の豊かなことか。
道は車が通れる幅の広い道につながった。ここまで来れば、ホステルまでは直進し続ければいいだけである。道端で4年生の男の子が、丘から広がる景色を眺めているのを私は見つけた。私も同じ方向に目を向けてみた。私の眼には、緑がいつも以上に照り輝いているように見えた。私が挨拶をすると、彼はニコリとした。
あぁ、彼があそこにいるということは、そうだ。あの家は確か、あの子の家だ。この前訪問したなぁ。それでこの先に別のあの子の家がある。そこでも冷たいデューをいただいたなぁ。丁度私が名古屋をインドネパール料理店の分布図で把握していたように、私は村々の全体像を子どもたちの家の配置で把握し始めていた。
学校の辺りまで戻ってくると、3人の小さな子どもたちが見えた。女の子が2人と男の子が1人。顔を覚えている。まだ1、2年生の子たちである。道端のほんの小さな広場から私を見つけると、「わー」やら「ナマステ~」やら可愛らしい声を私にくれた。「何しているの?」と訊くと、「あそんでる~」と答えた。「気をつけてよく遊ぶんだよ」と言葉を残して、私は帰るべき道に進んだ。
今日また君に会いに来た僕は 明日もまた明後日も
はじめてを覚えて 僕もはしゃいだ
また会える 頑張る力が それだけで
(一青窈『はじめて』より)
私は日本にいた頃、発展途上国での子ども支援に対して距離を感じていた。地理的な距離だけでなく、心理的な距離のことである。なんだか、それはあまりにも"いいこと"をしすぎている。自分は"いいこと"をしています、称賛してください、という自己主張にすぎないのではないか。
それに、NGOの人たちが、どうして母国の人のためではなく、自分と直接的な関係のない異国の人たちのために働くのか、私は解せなかった。そもそも私には共感性の片鱗もない。基本的に自分のことしか考えていない。だから、異国の子どもたちのために尽力できるのは、友人知人の誕生日を手帳に隙間なく書き、その全ての日程でプレゼントをあげずにいられないような、生来的に人情に溢れた一部の"おかしな"人たちだけだと、私は考えていた。
でも、私はわかった。私の考えは誤っていた。
誰だってできる。なぜなら、子どもの純粋さが、冷淡な私の心でさえも、あっという間に溶かしてしまったからである。子どもたちが可愛いから、カンボジアに学校を建てるのである。子どもたちの笑顔に惹かれ、ネパールの学校に明日もまた明後日も来たくなるのである。どんなに身体を酷使しようが、3、4時間歩く羽目になろうが、多少嫌な思いをしようが、子どもたちに癒され、つい会いに来てしまうのである。そうせずにはいられないのである。"いいこと"だから称賛してください、という気持ち以上のものを、抱かされるのである。
私は今となって、『はじめて』『ハナミズキ』の2曲だけは、誰よりも心を込めて歌える自信がある。
その後も道中、学校を欠席した男の子のお母さんと鉢合わせて話したり、話したこともない村人のおばあさんから声をかけられたりした。
ホステルに着いたのは、夕暮れを迎えようという時刻だった。庭の石段に職員の方々が5人腰かけていた。皆、疲れ切った微笑みを浮かべていた。この数日イベントにより、5、60人規模の人々が外部からやってきて、職員の方々、及びボランティアは対応に追われていた。私は自分の仕事という名目で(実際に自分の仕事をするためだったわけだが)、外へと抜け出していたのだった。イベントも終結し、職員の方々は何とか終わったと、ほっとしていたのだろう。
そこに明らかにルンルン気分の私が現れたわけである。
「そのチーズボールはどうしたの?」
「女の子からもらいました」
職員の方々は皆、声を出して笑った。
「そっちの花も、その女の子がくれたの?」
「いえ、別の女の子です」
職員の方々はさっきより大きな声で笑った。
「ここ座ったら?」
私は職員さんたちの列の端に腰を下ろした。軽めの昼食から5時間以上経っており、お腹が空いていた。私はチーズボールの上端を両手で引っ張り開封した。ジョッキビールを飲むように、顔を上へと傾け、袋を口の上で逆さにした。沢山のチーズボールが口の中へと流れ込んできた。サクサクと噛みしめると、空気とコーングリッツ以上の重みを感じた。私自身がドラえもんになって、みんなの夢を叶えられないのだろうか、なんて考えてみたりもした。
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小話: アイルセルゥを愛してる
以前別の村で男の子が"アインセルゥ"と私に向かって発音した時、私は"愛してる"と聞き間違えてドキッとした。
ボランティアのホステルでダイ(ネパリ兄さん)に誘われ、朝7時30分頃、アインセルゥを摘みに出かけた。
いっぱい生っている。夜になったらオレンジ色の実だけライトアップされているのかもしれない。

こちらがアインセルゥ。人差し指の先っぽより小さい。オレンジ色の粒粒が集まり、一つの実になっている。私も一つ取って食べてみた。味はほんのり酸っぱく甘い。自然の味である。
茂みの中に入ってアインセルゥ収穫に夢中になっていたら、私は手の甲を何かのトゲで切ってしまった。真っすぐな傷口から、血がだらっと流れてきた。すると、ダイはその場で草葉を集めて、両手の平でつぶし、それを私の傷口に塗った。自然界の応急処置か、さして意味はあるまい。そう舐めてかかっていたが、血はあっという間に止まり、傷口は数日で治ってしまった。村人の暮らしの知恵には脱帽である。

収穫した自然の恵みは草で作った容器に入れて、ホステルまで運んだ。
田舎育ちのネパリはアインセルゥを愛しているようである。私がホステルまで持ってきた大量のアインセルゥは、ほとんど小さい男の子が食べてしまった。この辺りの子どもたちは、暇さえあれば道中の木から取ってその場でアインセルゥを食べたりする。「子どもの頃よく食べていました。懐かしい」と、日本在住のネパリ女性は私に言った。思い返せば、私も小学生の頃、学校の裏山で赤いアインセルゥを食べていた気がする。
「"アインセルゥ"って10回言って」
「アインセルゥ、アインセルゥ、アインセルゥ......アイウンセルゥ」
「スピッツの『ロビンソン』のサビは?」
「"あ~いして~る~♪....."」
「違うよ。"だ~れもさわ~れ~な~い~♪....."だよ」
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Day193-197: 強く、優しく、美しい
この村の子たちは、苦境の中でも強い。
私は学校・通学路・家庭という多方面から子どもたちと触れ合う機会を得られていた。彼らの日常の姿それだけで、私の心を揺さぶるものがあった。
ペットボトルをサッカーボールの代わりとして蹴り合う男の子たち。放課後水汲み場まで歩き、2リットルペットボトル7、8本に水を入れ、それを背負いかごに入れて家まで運ぶのを日課としている女の子。家に着くと小さな甥を抱きながら商店の番をし、その後ヤギを散歩に連れていく女の子。
「16時に学校が終わって、17時過ぎに家に着くんだよね?それから何をするの?」
「家事を手伝う。畑を耕すのとか、料理を作るのとか」
「じゃあ、宿題はいつやるのさ?」
「20時に夕飯を食べ終えて、それから22時まで宿題をする。朝は5時起き」
「眠くならないの?」
「眠くはなるけど頑張る」と、話す女の子。
「それで、君は弁護士になりたいって学校で言ってたよね?」
「うん」
「本当になりたいの?」
「本当よ」
「君のコミュニティで、過去に弁護士になった人はいるの?」
「いない」
「そんな、弁護士になりたいだなんて.....本気?」と、彼女の母親が"冗談でしょ?"と問うように口を挟んだ。
「本気よ!私は本当に弁護士になるの!」女の子は力強く言った。
"発展"という点では、この村が遅れているのは明らかだった。農業に依存している家庭が多いが、広い畑を耕すのにトラクターではなく、2頭の牛に道具を引かせるような国であり地域である。昔ながらの伝統的な生活様式が維持されている一方、それを回していくためには人力が必要である。そのため、子どもたちは"家の仕事"を手伝う。日本の多くの子どものように、「ただいま~!友達の家に行ってゲームしてくる~!」という時間は、あまりなさそうだった。
そして、経済的にはどこの家庭も厳しそうだった。厳しいなんてものではない。子どもの親御さんに聴き取りをする度、その生活費で一体どうやって家族と一緒に生きていくのかと、私は驚愕させられた。建築作業の要件が出れば、土や煉瓦を日雇いで運ぶというお母さんもいた(それでも一日の収入は600円程度だという)。収入はほとんどない、ローンを借りて何とかしている、そんな家庭もあった。(学校の生徒の中に、ふくよかな子は誰一人いなかった。)
「私たちは貧乏なの」とある女の子が教室で私に向かって言った。しかし、学校での彼らは、先生の話に注意を向け、ノートを取り、はきはきと発言している。休憩時間には友達とおしゃべりし、笑顔で外を走り回っている。貧しさや生活の困難さをほとんど感じさせない。逆に心の豊かさが溢れているようにさえ見える。私は子どもたちのたくましさを、まざまざと感じさせられるのだった。
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ここの人たちは優しい。
「あなたはラムロな人よ」
学校の先生や7年生の女の子が、私にそう言ってくれたことがあった。"ラムロ"とはネパール語で"いい"(Good) という形容詞である。
"あなたはいい人ね"。これほど単純な誉め言葉はない。そもそも誉め言葉なのかもわからない。相手を褒めようとする意図なんて、ないのかもしれない。先生や女の子も、なんとなくそう言ってみただけかもしれない。
しかし"あなたはラムロな人よ"というフレーズは、私にとって、とてつもなく意味のある響きだった。
私は川端康成『伊豆の踊子』のワンシーンを、映像のように思い起こした。
「いい人ね」
「それはそう、いい人らしい」
「ほんとにいい人ね。いい人はいいね」
この物言いは単純で明けっ放しな響きを持っていた。感情の傾きをぽいと幼く投げ出して見せた声だった。私自身にも自分をいい人だと素直に感じることができた。〔中略〕二十歳の私は自分の性質が孤児根性で歪んでいると厳しい反省を重ね、その息苦しい憂鬱に堪え切れないで伊豆の旅に出て来ているのだった。世間尋常の意味で自分がいい人に見えることは、言いようなくありがたいのだった。
踊り子たちが主人公のことを"いい人"だとひそひそ話をし、それが主人公の耳に入ってくる場面である。
私は孤児ではないが、日本社会で窒息しそうなほどの息苦しさを感じていた。私の心は、台所の油まみれの換気扇の如く汚れていた。優しさも欠けていた。もはや心がなかった。そうして思い切ってネパールに飛んだ。
「あなたはラムロな人よ」
その言葉を聞くと、私は胸の奥のほうがじーんと温まるのを感じた。相手の心が確かに存在し、自分の心が確かに存在するのを感じ取ることができた。涙腺まで少し温められた。自分はこの場所にいてもいいのだ。他者からの肯定は、自分で自分を肯定することにもなった。
新たな出会いの中でネパールの優しさに触れ、真っ黒だった私の心は以前よりも透明性を戻してくれたのかもしれない。以前も"踊り子"という表現を使ったことからも、『伊豆の踊子』のように、それこそが私が今回の滞在で痛切に求めていたことなのかもしれない。
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これらの理由がゆえなのだろう。ここの人たちは美しい。
公立の学校は日曜日から金曜日まで、週6日授業がある。日曜日から木曜日までは10時授業開始の16時下校だが、金曜日は半日で終わる。13時15分の鐘が鳴ると、私ともう一人の外国人ボランティアの2人で、とある女の子の家までついていくことになった。
その子は高学年に所属していた。彼女の顔は丸く、愛らしさがあった。どちらかというと物静かなほうである。強い芯を持って生きていそうにも見えるし、ぼんやりと日々を過ごしていそうにも見える。
彼女の家は遠く、学校から1時間半かかると聞いていた。私たちはそれを覚悟のうえで、彼女とその友人2人の横に並び、砂埃が舞う村道を歩いていった。
私は彼女たちに、好きな教科だとか、将来の夢だとか、何をするのが楽しいか等、ありふれた質問を重ねていった。途中に小さな商店があり、彼女たちはそこに用事があるらしく入っていった。私とボランティアの子は、店の前で待った。椅子に腰かけていたおじいさんが私たちに話しかけてきたので、「日本は何でも高い」と、時間埋めとしてのおしゃべりを楽しんだ。店から出てきた少女たちは、「はい、どうぞ」と、私たちにキャンディーとガムを計3つくれた。
しばらく歩いていくと、少女たちは細い脇道に進んでいった。丘の斜面に沿った道で、もはやハイキングコースである。横に並ぶことなどできず、私たちは縦に一列になった。足を滑らせたら斜面を転がっていき大けがにつながりそうである。
私は少女たちに質問を続けつつも、足元に注意した。右側には森林が広がっていた。この森から虎が出てきても、何も驚かないだろう。左側は畑が広がり、向こうには丘の緑の中に家々が点々としているという、ネパールらしい田舎風景が埋め尽くしていた。商店のような"店"は、どこにも見当たらない。私たちは歩を運び続けた。
少女は友達と帰っている間、楽しそうだった。なぜか私の話し方がツボに入ったようで、クスクス笑いを堪えきれずにいた。やれやれ、ネパールの子どもたちは「シェルパ族みたい」って言うわ、「結婚していないの!?」っておちょくるわで、私に対して容赦ない。ただ、彼女がこれほど笑う姿を目にするのは初めてだった。それは良いことでもあった。
やがて少女の友達たちは途中で別れ、私たちは一つの集落にたどり着いた。土と石で作られた伝統的な家が集まっていた。とある民族の集落のようである。人の気配はほとんど感じられず、庭に座っているおじいさんを2人見かけただけだった。
少女の家には誰もいないようだった。「家畜の散歩に行っているみたい」彼女は言った。本当は彼女の家族とお話しして、家庭のことについて情報収集したいところだったが、まあいいか。この子からあと少し聴き取りをしておくか。何より、実際にこの子が歩いている通学路を一緒に体感したことに価値がある。
少女は私の目を下から覗き込むようにして、「お寺を案内しようか?」と提案してきた。私は自身の疲労を身体に押し込み、「ぜひ」と答えた。日差しが強く、私のTシャツはすでに汗でぐっしょり濡れていた。身体はトーストの上のバターのように溶けかけていた。彼女は颯爽と草むらの中を歩いていき、私たちはそれに続いた。ゴツゴツとした石を上り下りしていると、太ももが痛くなった。
私は少し息を切らしながら、彼女の背中に質問を続けた。彼女は返事の最初に、「マ?(ネパール語で"私?")」という訊き返しを必ず置いた。
「毎日これだけ歩いて学校を行き来して、疲れないの?」
「マ?」
「うん」
この状況において質問相手は"私"以外ありえないのだが、相槌と似たような要領なのか、彼女は「マ?」を欠かさなかった。その"マ?"は少し泣きそうな声にも聞こえた。私は時々、質問を続けることを躊躇した。
「ううん、もうこれだけ歩くことに慣れた」
「僕だったら学校に行きたくなるかもしれないな。特に雨の日なんかは」こういうことは"たまには学校に行かなくてもいいんじゃない?"と勧めているようで、異国の少女に言うべきではない。私は言葉が口から出てしまった後に、そう反省した。しかし彼女は、「他の子は時々学校を休む子もいるけど、私は欠席しない」と、さらっと後ろ姿と一緒に語った。事実、彼女はほぼ皆勤だった。
「カジャ(軽食)は何を食べるの?」
「マ?」
「うん」
「カジャは食べない」
「学校でも家でも?」
「うん」
「お腹空かないの?」
「食べない。慣れた」
「ふーん」
彼女が連れてきてくれた寺は、日本人がイメージする一般的な寺とは異なっていた。柵の中に50cmほどの宗教的な像が置かれているだけである。寺の良し悪しは私のあずかり知るところではないが、「ラムロは寺だね」と、私は彼女のほうを向いてみた。彼女は額に汗をかいていた。しかし、呼吸はまったく乱れることなく、落ち着いた様子だった。
「写真撮ってあげようか?僕たちのプロジェクトで使う用だけど」
私はもう一人のボランティアに頼んで、ちゃんとしたカメラで彼女の写真を撮った。「今日はこれからどうするの?」と彼女に訊くと、「服を洗濯する」と言った。
私たちはそこで別れた。私ともう一人のボランティアは近くにベンチを見つけて、しばらく休憩した。帰るのが億劫だった。しかし日の入り前に帰らないと、万が一道に迷った際、虎に食べられてしまうかもしれない(これは冗談ではなく、村に虎は本当に出没するらしい。大人も子どもも「虎を見たことがあるよ。あいつらはヤギを食べる」と私を脅してくる)。これを毎日往復するなんて、どんな強靭な子どもなんだ。私たちは腰を上げ、元来た道を辿っていった。道中の分かれ道で何度か迷ったが、村人に道を尋ねながら、なんとかホステルまで帰ってくることができた。その時刻には、もう帰って寝る以外考えられなかった。
それから数日後、同行したボランティアの子が、撮影した写真を私の業務用に送ってくれた。それを見た途端、私はパソコンの画面に数センチ引きつけられた。
その写真は、10代前半の少女がお寺の前で立っている写真にすぎない。彼女は学校のジャージを着て、両手を後ろに回している。眼差しはカメラのレンズ一点に向けられている。表情は笑顔でもなく、悲しみを表出しているようでもなく、恥ずかしそうでもない。かといって、真顔でもない。ただありのままの姿が、写真に収められているにすぎない。
私が『真珠の耳飾りの少女』を目にしたのは、高校の世界史の資料集だった。私は当時その絵画に惹きつけられた。それがなぜなのか明確には言い表せない。そもそも私は絵画の良さを見抜く芸術的素養を持ち合わせてはいない。美術館で絵画鑑賞をした経験もない。せいぜい常識的な絵画とそのタイトルを知っているくらいである。しかし少なくとも、『真珠の耳飾りの少女』はとにかく美しい、と思っていた。こうして社会人になってからも、その感覚は変わっていない。
ネパールの耳飾りの少女にも、似たような何かが見て取れた(実際彼女は、民族的、あるいは宗教的な意味合いゆえか、小さなイヤリングをつけていた)。常軌を逸した美しさ。街角できれいな人を見て、「あの人、モデルみたいに綺麗ね~」という感じとは違う。耳飾りの少女の美しさは、見たものの胸に切実に訴えかける何かがあった。美しさがまっすぐ迫ってきて、私たちの心を押しつぶしてしまうかのようだった。
その一つの理由は、フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』と同じように、ネパールの耳飾りの少女も謎に包まれているためだろう。長方形のフレームに収まった彼女は、どんな感情を抱えているのか、私には掴めなかった。下校中の笑顔、泣きそうに聞こえた声、それらを思い出すと、彼女が何を思っているのか、一層わからなくさせた。
そして、"見たものの胸に切実に訴えかける何か"というのは、彼女が持つ強さ、優しさ、そして純粋さであるに違いない。つまり、彼女の"心"である。毎日登下校のために平然と3時間歩く。雨が降ろうと不平を口にせず、授業を欠席しない。自ら地元を案内してくれる。家事を手伝う。「インネパダダ(インネパお兄さん)」と、柔らかい声で私を呼ぶ。授業中潤った真剣な眼差しで、教師の顔をじっと見つめる。それらの総体が彼女の美しさを構成している。
ここの村人たちは美しい。誰もが美しい。性別問わず美しい。なぜだろう?彼ら彼女らの心が美しいからだ。ペットボトルでサッカーをする少年たちも、チヤに誘ってくれるディディも、「ラムロな人ね」と言ってくれる子も、道端で声をかけてくれるおじさんも、全部全部美しい。
ヒマラヤの雄大さだって、ポカラからの眺めだって、女性のサリー姿だって、もちろん美しい。感嘆するほど美しい。でも、"美しい心"から生じる美しさには勝れない。白雪姫の継母でさえ、美しい心だけは殺すことができない。
だから、美しい心が溢れているこの村自体も、美しすぎるほどに美しいのである。この村にしか使えない、"美しい"という意味の新たな形容詞が欲しくなるくらい、美しいのである。
ネパールの農村の美しさは、ここにしかない。日本で探し回っても、見つけられない。誰も作り出すことができないし、模倣することさえ不可能である。
いや、少しでもこの美しさを自分の心に作れたらなぁ。私は帰国してから、そんなことをつくづく思っている。
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小話: 渡航前のワクチン接種
海外に長期滞在となると、ワクチン接種が必要になってくる場合がある。南アジアの発展途上国ネパールも、ご想像の通り例外ではない。
私は通いやすい医院・クリニックを調べ、そのうちの一つに電話をかけてみた。電話先の女性スタッフは、名前、接種希望ワクチン、渡航日などを訊いてきた。
「接種スケジュールを立てるために一度来院していただけますか?」私は平日に午後休をとり、電車に揺られて来院した。
私が打ちたいと告げたワクチンは以下の4種である。
・A型肝炎
・B型肝炎
・破傷風
・日本脳炎
旧NEPAPI Channelのハリーさんとレイチェルさんの話を参考にした↓
クリニックにて、黒髪ストレートの若い女性看護師さんがカレンダーを見せながら、接種スケジュールを提案してくださった。今日が9月上旬。9月中に1週間ごとにそれぞれ1回打つ。同じ流れで10月中に1週間ごとにそれぞれ1回ずつ。つまり一つのワクチンにつき2回接種し、合計8回。大谷翔平がホームランを打つペースでワクチンを接種していくのか、と私はワクワクした(実際は大谷翔平のほうは、その後恐るべき勢いで、歴史に残る50-50を達成した)。早速その来院のついでにA型肝炎のワクチンを打ってもらった。
こうしてワクチン三昧の日々がスタートした。
家でワクチンの注意事項の用紙を丹念に読み、問診票を記入する。
それと予約票を持って予約日時にクリニックに行く。
体温を測定する。待合室でテレビを眺める。
名前が呼ばれる。院長先生と軽い問診をする。
再度名前を呼ばれる。奥の部屋に移動する。
看護師さんが、私の細い二の腕に注射針を刺す。痛みはほとんどない。
次回の予約票をもらう。次回のワクチン料を事前に支払う。
接種後は待合室で15分ほど安静にする。きっちり15分経ったのを腕時計で確認し、「ありがとうございましたー」と受付の方々に挨拶をして去る。
それが毎週のように繰り返された。10月下旬に無事8回目まで接種を終えることができ、私は胸をなでおろした。
ワクチンといえば副作用を気にされる方がいるかもしれない。看護師さんも言っていたが、私が受けた4種のワクチンに関しては、大きな副作用はよっぽど出ないようである。破傷風のワクチンは接種部の腫れが若干目立ったが、新型コロナワクチンのように発熱することはなかった。
合計費用は5万円以上かかった。高いが、現地病に怯えることなく過ごすため、と安心感を買ったと思っている。
実際に7ヶ月ネパールで過ごし、腹痛や風邪や高熱はあったものの、大きな病気に罹患することはなかった。ワクチンがどれほど寄与してくれたかは、計りようがないが。
狂犬病のワクチンに関しては.....私にはなんとも言えない。到着3日後に野良犬2匹に吠えられ咄嗟に踵を返して疾走したが、ワクチンを打っていなかったからこそ、絶体絶命の危機を全身で瞬時に感じ取り、指先足先までアドレナリンが解き放たれ、野良犬の追走を振り切ることができたのではないかと、私は誇りに思っている。(※いうまでもなく、あの時の野良犬に対する私の対処法は愚の骨頂だった。真似してはいけない。ワクチン"接種"は、正しい情報の"摂取"が欠かせない。)
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